弥 生 時 代 |
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Ⅰ.稲作伝来
稲が揚子江中・下流域で栽培されるようになったのは、紀元前6,000年を遡ります。東シナ海沿岸を北上して朝鮮半島にわたり、そして日本列島にも到来しました。この北上の過程で寒冷な気候にも耐えられる品種に変化しながら、しかも畑作栽培の穀類や豆類を加えての伝来でした。
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初期の木製農具
(左)狭鍬(田原本町多遺跡)・(左)広鍬(唐古・鍵遺跡/田原本町所蔵)
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初期の穂摘み具(唐古・鍵遺跡/田原本町所蔵)
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Ⅱ.田と森の融合
縄文人は、水稲農耕に伴う新たな労働を、季節ごとの集中労働に振り分けることで受け入れ、弥生人になることができました。いまだ生活は、食用植物の採集や狩猟によってささえられており、新来の土木具・農耕具や容器の生産にも、森林の管理・伐採についての縄文の知識が生きていました。ただし、水稲農耕が伴ってきた機械や井戸掘りによって、男女の分担する労働の種類は増えていきました。
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紡錘車、糸巻き、きぬた、つちのこ (唐古・鍵遺跡/田原本町所蔵)
*糸巻きは現在、田原本町唐古・鍵考古学ミュージアムにて展示中
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土器に付いた布の圧痕(清水風遺跡)
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各種の容器(唐古・鍵遺跡、大福遺跡、橿原市中曽司遺跡) |
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土器(橿原市新沢一遺跡) |
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Ⅲ.神の宿る器
−青銅の神−
列島の青銅器文化は、中国東北地域から朝鮮半島を南下した青銅器文化を源とします。畑作・狩猟を生業とする、シャーマニズムの地域に発した青銅器文化が母体でした。武器を中心にして、鏡・小銅鐸を加えながら南下する青銅器文化に、稲作をおこなう人々もまた神の権威をみました。そして弥生時代前期末に九州に到来したのち、近畿では銅鐸がことさらに発達します。
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銅鐸の鋳造
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奈良県出土の銅鐸形土製品 |
銅鏃と円形青銅製品(田原本町所蔵)
*円形青銅製品は田原本町唐古・鍵考古学ミュージアムにて展示中 |
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−祖霊の世界−
水田を作るようになった人々は、死者の空間を生活の場の外に移しました。つまり墓地は、ムラ近くの耕作地などに有効利用できない場所に作られるようになりました。墓の形には地域によって違いがあります。近畿地方では、周囲を溝で区切り方形に盛り土した、方形周溝墓とよばれる墓が主流でした。死者は、コウヤマキ製の組合式木棺に入れられて葬られました。
子どもが亡くなったときは、特別な扱いがされました。大人の葬られる墓地にではなく、集落のはずれに葬ることがありました。大きな甕を棺とし、鉢や高坏で蓋をしたものが発見されています。
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方形周溝墓(田原本町法貴寺遺跡)
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供献土器(吉野町宮滝遺跡)
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子供の墓の位置(坪井遺跡)
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子供を葬った甕棺墓(坪井遺跡)
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子供の木棺墓(大福遺跡)
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Ⅳ.国へのあゆみ
唐古・鍵遺跡は近畿最大の環濠集落です。弥生時代中期初めには、長径約500m・短径約400mの楕円形に、幅10m・深さ2m以上をはかる大環濠が完成しました。後にその外に幅約5mの濠をいく筋も加え、防御の効果をより高めていきます。ちなみに大環濠の掘削土量は、全長120mの前方後円墳の体積に等しくなります。古墳時代のはるか以前に、すでに大規模な土木作業を可能とする、労働力の確保と組織化が果たされていました。この力が戦争に向けられたのです。
耕作地から離れた丘陵や尾根上に、高地性集落と呼ばれる集落が一時的に築かれます。見張り台的な小規模なものが多い中で、東大寺山遺跡は大規模なものであり、尾根上にあって外周に空濠を巡らしていました。盆地の集落の一つが戦争から身をまもるため、弥生時代後期中頃に一時的に移動してきたものです。
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高地性集落(天理市東大寺山遺跡) |
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上段: 石鏃(橿原市新沢一遺跡)
下段: 石剣(左 天理市平等坊・岩室遺跡、右 新沢一遺跡)
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銅鏃と鉄鏃(左 桜井市纒向、 中 斑鳩町三井岡原遺跡、右 大王山遺跡)
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高地性集落(天理市東大寺山遺跡) |
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