飛鳥・奈良時代 |
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Ⅰ.古代の宮都
飛鳥の宮
藤原京と平城京 -古代都市の成立-
・都びとの生活と古代の手工業生産
・古代のいのり
Ⅱ.仏教文化と寺院の建立
広まる寺づくり(寺院を飾る)
Ⅲ.古墳から火葬墓へ
飛鳥時代の古墳
火葬のはじまり |
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Ⅰ.古代の宮都
飛鳥の宮
宮都とは、もともと「宮室、都城」を略した言葉です。宮室は天皇の住まいを意味し、都城はそれを中心とした一定の空間のひろがりを示しています。古代の宮都は、政権の所在地であるとともに、支配力の絶対性を象徴する存在でもありました。飛鳥時代になると、わが国は中国から新しい制度を取り入れ、「律令国家」とよばれる新しい国づくりをめざします。そのため、古代の宮都の変遷には、当時の支配者の意図が如実に反映されることとなり、古代国家の形成過程が具体的にあきらかとなります。
「日本書紀」によると、592年、推古天皇は豊浦宮で即位します。飛鳥時代の幕開けです。この後、約100年間、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮、天智天皇の近江大津宮の時期をのぞいて、宮都は飛鳥・藤原地域を離れることはありません。当時、飛鳥とよばれていたのは、香具山以南の飛鳥川東岸の東西0.5km、南北1.5kmの狭い地域といわれます。この狭い盆地が、大化改新・壬申の乱などの舞台となり、聖徳太子・蘇我馬子・天智天皇・天武天皇・持統天皇が、新しい国づくりをめざし活躍した場所となりました。
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「小治田宮」墨書土器(明日香村雷丘東方遺跡
/明日香村所蔵) |
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飛鳥京跡と周辺の遺跡 |
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削屑木簡
「大津皇」(左) 「辛巳年」(右) |
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飛鳥の宮 復元模型
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無文銀銭(飛鳥京跡) |
飛鳥の宮 エビノコ大殿(復元模型)
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藤原京と平城京―古代都市の成立―
7世紀末から8世紀前半にかけて宮都は、飛鳥から藤原京、平城京へと遷されました。藤原宮、平城宮では、瓦葺きの宮殿が採用され、役所がその周囲をとりまいていました。宮の周囲には、役人を集住させるための方形区画の街並(条坊)がつくられました。都を中心とした列島各地域との交流も活発となり、市も設けられ、平城京では手工業の発達も認められます。古代都市の誕生であり、律令国家の成立をも意味しています。
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藤原宮の軒瓦 |
藤原京条坊復元図 |
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藤 原 京 |
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藤原宮平面配置図 |
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平 城 京
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平城宮平面配置図(奈良時代前半) |
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都びとの生活と古代の手工業生産
藤原京、平城京といった古代都市が成立すると、そこに住まう人々をささえるため、瓦づくり、土器づくり、鋳造関係など、さまざまな手工業に従事する人々が生まれます。藤原京では、まだそれほどではありませんが、平城京ではより顕著となります。これは平城京が都市として、徐々に成熟しつつあったことを示しています。 |
琥珀飾り(平城京左京三条四坊) |
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奈良三彩(御所市巨勢寺跡) |
奈良三彩瓦(平城京左京三条三坊) |
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木製沓(平城京跡) |
硯(平城京左京六条二坊) |
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平瓶(平城京跡) |
土器(平城京左京六条二坊) |
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古代のいのり
都市で多くの人が集まって生活するようになると、複雑な人間関係が生じ、疫病が流行するようになりました。
そういった穢れを取り除くために、様々な祈りの道具が登場するようになります。
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藤原京でのまつり(金属製人形、
小型鏡・鈴/橿原市所蔵) |
平城京でのまつり(土馬、墨書人面土器、竈のミニチュア) |
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Ⅱ.仏教文化と寺院の建立
仏教は、日本人にとって最も身近な宗教のひとつでしょう。この教えは、現在の日本人の生活に多くの影響を与えています。飛鳥・奈良時代の日本は国をあげて仏教を信仰していました。それは、仏教とは、国をまもる教えであったからです。そして、その信仰とともに中国や朝鮮半島から最新の文化や技術・芸術などが日本にもたらされました。
日本で最初の本格的な寺院である飛鳥寺を建てるため、蘇我馬子が百済から多くの技術者を呼び寄せたと「日本書紀」には記されています。このことは、飛鳥寺から出土した軒丸瓦が、百済の寺院跡から出土する瓦に非常によく似ていることから裏付けられます。飛鳥時代・奈良時代には大和のいたるところに150もの寺院が建立されました。
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韓国東南里廃寺の軒丸瓦 |
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飛鳥寺の軒丸瓦
(奈良文化財研究所所蔵) |
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斑鳩寺の軒瓦(法隆寺所蔵) |
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豊浦寺の軒丸瓦 |
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地光寺跡塔心礎(葛城市) |
法隆寺の軒瓦(法隆寺所蔵) |
山村廃寺の軒瓦 |
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広まる寺づくり(寺院を飾る)
寺は、仏の世界を表しています。特に、仏像が安置された金堂は、華やかな仏の世界を表現するために、さまざまな装飾がほどこされました。発掘調査で、これら堂内を飾った道具や仏像が出土することは極めて稀です。
屋根に瓦を葺く技術も、寺作りの技術のひとつとして日本にもたらされました。藤原京が造られるまで、ほとんどの場合、瓦は寺院建築のみに用いられました。 |
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十二尊連坐塼仏
(葛城市只塚廃寺)
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方形三尊塼仏
(宇陀市駒帰廃寺)
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大型独尊塼仏
(明日香村紀寺跡)
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石製菩薩立像頭部
(葛城市只塚廃寺)
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鬼面文隅木蓋瓦
(明日香村紀寺跡)
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垂木先瓦
(天理市楢池廃寺)
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鬼瓦
(奈良市興福寺)
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Ⅲ.古墳から火葬墓へ
-飛鳥時代の古墳-
7世紀後半になると、墳丘全面に石を貼り付けた古墳や、八角形の墳丘が登場します。石室には切石積石室や横口式石槨、磚積石室などが採用され、漆塗りの荘厳な棺が納められました。その技術には、版築や切石、漆喰といった寺院建築の技術が大幅に導入されています。そして、少ないながらも正倉院にみられるような豪華な品々が添えられました。 |
七宝飾金具 '
(明日香村牽牛子塚古墳) |
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三彩円面硯とガラス管(斑鳩町竜田御坊山古墳) |
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束明神古墳石室(高取町) |
漆塗陶棺(斑鳩町竜田御坊山古墳) |
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-火葬のはじまり-
700年(文武4)僧道昭は遺言により荼毘にふされました。わが国における火葬のはじまりです。702年(大宝2)には、持統天皇も火葬され、天武天皇と合葬されます。こういった火葬は、仏教思想とは別に、当時、新羅でおこなわれた火葬や薄葬思想の影響が強くあります。また、火葬は、広い階層の人々に定着することはなく、天皇にしたがった役人のあいだで、一種の流行のように採用されていました。 |
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太安万侶墓(奈良市)
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太安万侶墓誌
(文化庁所蔵)
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白川火葬墓(天理市) |
骨蔵器(白川火葬墓) |
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