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唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)[田原本町唐古・鍵周辺]
 
位置
 国道24号線を南に下り、天理市から田原本町に入って約0.5km、視界は東に広がり、屋根に渦巻き飾りをもつ復元楼閣がみえる。そこが唐古・鍵遺跡の中心部である。

濠をめぐらした集落
 奈良盆地の中央部、初瀬川と寺川の間の安定した土地に占地した広大な集落跡である。最盛期には、東西・南北ともに約400mを測る居住地は、何重もの大規模な濠に守られていた。内濠は幅10m・深さ2mを測り、外方には幅5m・深さ1.5mの濠が幾条もつづく。城砦と見まがう姿の集落の総面積は約40㌶。これに墓地等の関連遺跡の推定範囲(北の清水風遺跡から東北の法貴寺遺跡)を含めれば、面積は100㌶近い。その規模は佐賀県吉野ヶ里遺跡や、中国史書にみる北部九州の弥生時代の国の中心集落である一支国の原の辻遺跡(長崎県壱岐)、奴国の須玖(すぐ)遺跡群(福岡県春日市)、伊都国の三雲(みくも)遺跡群(福岡県前原市)などに並ぶ。弥生時代社会における唐古・鍵遺跡の力の程がうかがわれよう。

弥生時代の標識遺跡
 本遺跡が弥生時代遺跡の白眉(はくび)とされる最大の理由は、弥生時代の社会が水稲耕作に基づいた社会であることを実証した遺跡であるからだ。1937年の末(すえ)永(なが)雅(まさ)雄(お)博士による唐古池の発掘は、弥生土器・炭化米とともに多数の木製農耕具を検出することに成功した。1925年に宮城県枡形囲(ますがたかこい)遺跡の弥生土器に籾(もみ)跡があることを山内(やまのうち)清男(すがお)博士が注意して以来、列島における初期水稲農耕の具体的な姿がついに明らかにされたのである。そして6年後の1943年には、静岡県登(と)呂(ろ)遺跡で水田と集落が確認され、弥生時代の農耕集落の全体像が知られることになった。

母なる村
 唐古・鍵遺跡は、周辺にある小・中規模の集落遺跡に対しての母村とよばれ、地域社会の中心集落と目されている。その理由は、遺跡の規模が大きいことに加えて、出土遺物が極めて多様であるからだ。出土遺物の多様さは、集落内で様々な手工業がおこなわれていた証左であり、かつ集落・地域間の交易が活発であったことを示している。
 唐古・鍵遺跡の手工業は、土器・石器・木器などの生活用具の生産から、銅鐸などの青銅器の鋳造までと幅広い。特に銅鐸の鋳造に関しては、第3次調査(1977年)で石製と土製の二種類の鋳型が発見されている。以前より銅鐸の鋳造法については、石製鋳型から土製鋳型による鋳造へ変化したものと推定されていたが、その両方の鋳型が唐古・鍵遺跡から現実に出土したことで、弥生時代のハイテクともいえる鋳造技術の革新が、中期末から後期初めにおこなわれたことが明確になった。
 手工業による製品は周辺集落にも供給され、中には他地域との交易品になったものもあったらしい。その見返りに、他地域からもたらされたと思われる遺物がある。新潟糸魚川に産するヒスイを用いた勾玉(まがたま)に代表される装身具や、吉備・東海・近江地域・河内地域の土器(内容物は不明)、さらには鯛やアカニシ(貝)などの海産物も出土している。こうした遠距離の交流が、弥生時代社会の中で唐古・鍵遺跡の地位をより高めたのであろう。唐古・鍵遺跡は奈良盆地のなかだけでなく、他地域との関係においても、弥生時代の発展を考える上で重要な遺跡である。
当研究所総括研究員 豊岡卓之

【遺跡への交通機関】近鉄橿原線石見駅 東徒歩15分、
【遺物展示施設】橿原考古学研究所附属博物館(橿原市畝傍町50-2)、
        唐古・鍵考古学ミュージアム(田原本町坂手233-1田原本町青垣生涯学習センター内)
※当博物館では、第1展示室と第2展示室で出土遺物を展示しています
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