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  坪井・大福遺跡(つぼい・だいふくいせき)[橿原市常磐町坪井・桜井市大福]
   
 

 橿原市北東部の常盤(ときわ)町・東竹田(ひがしたけだ)町から桜井市西部の大福(だいふく)にかけて拡がる縄文時代晩期から古墳時代前期の遺構を中心とした遺跡で、奈良盆地の東南部、多武峯から奈良盆地に注ぐ寺川及び米川に挟まれた標高62~65mの複合扇状地上に立地している。「坪井・大福遺跡」の名称は、橿原市常盤町坪井に所在する「坪井遺跡」と桜井市大福に所在する「大福遺跡」が調査の進展により一連の遺跡と認識されたことによって両遺跡の総称として使用されている。ただし、坪井遺跡から南東に距離の離れていた大福遺跡の一部(大福小学校地区)は、現在も坪井・大福遺跡とは区別して「大福遺跡」とされている。
 主な遺構は、縄文時代晩期の土器棺墓、弥生時代前期から中期末の集落域を囲う環濠(かんごう)、土坑(どこう)、柱穴、木棺墓、土器棺墓、弥生時代後期の大溝(環濠)、土坑、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、木棺墓などである。弥生時代後期の方形周溝墓は大溝(環濠)の外側に造られることから集落域と墓域を分けていたと考えられる。主な出土品は、縄文時代晩期の遮光器(しゃこうき)土偶(どぐう)、弥生時代中期の鳥装(ちょうそう)の人物(シャーマン)を描いた絵画土器や漆塗(うるしぬり)木製把頭(つかがしら)、古墳時代前期の木製短甲(たんこう)などがある。特筆すべき資料として、弥生時代後期の長頸壺に納められた犬一匹分の骨がある。肉や皮の付いた状態では壺の中に納めることが困難なことから一度埋葬した後に掘り出して、主な骨だけを壺の中に納めて再度埋めた再葬墓と考えられる。
本遺跡の周辺には南側に大隅(おおすみ)遺跡、南東側に大福遺跡がある。大隅遺跡は坪井・大福遺跡に隣接することから一連の遺跡である可能性が指摘されている。大福遺跡は突線鈕式(とつせんちゅうしき)銅鐸(どうたく)が発掘調査されたことで有名だが、弥生時代後期から古墳時代前期の方形周溝墓が多数検出されており、坪井・大福遺跡の墓域と想定されている。
 弥生時代中期に最盛期を迎える坪井・大福遺跡だが、後期になると環濠を維持しているものの遺構数が減少していく。隣接する大福遺跡では弥生時代後期に遺構数が増加する。そのため坪井・大福遺跡の人々が環濠の外側、つまり集落の外側へと進出して新たな集落(大福遺跡)を形成したと想定される。坪井・大福遺跡と大福遺跡は弥生時代中期の集落域と墓域という関係だけでなく、弥生時代後期にも有機的な関係にあった。弥生時代の集落の動態を考える上で一つのモデルケースとして捉えられる。

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