アクセス 博物館トップページ > 大和の遺跡 > 古墳時代
佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳[奈良市山稜町]
前期末葉の巨大古墳の実態
佐紀石塚山古墳(手前)・佐紀陵山古墳(奥)・佐紀高塚古墳(右)佐紀石塚山古墳(手前)
佐紀陵山古墳(奥)
佐紀高塚古墳(右)
佐紀盾列古墳群
 奈良盆地北部に展開する佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群(佐紀古墳群)は、奈良盆地東南部の大和古墳群、大阪平野の古市古墳群、百舌鳥古墳群と並ぶ大古墳群である。前期後葉の五社神(ごさし)古墳にはじまり、佐紀陵山古墳、佐紀石塚山古墳、市庭古墳、ヒシアゲ古墳、コナベ古墳、ウワナベ古墳と、前期から中期にかけて造営された全長200㍍以上の巨大前方後円墳に加え、これらに随伴する陪塚(ばいちょう)群、そのほかの中・大型前方後円墳で構成される。巨大古墳のすべてと一部の陪塚、大型前方後円墳が陵墓もしくは陵墓参考地として宮内庁の管理を受けている。

盗掘事件
 佐紀陵山古墳は古墳群の西寄りに位置する全長207㍍の前方後円墳である。幕末まで神功皇后陵とされていたが、明治の初めに垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひはすひめのみこと)陵に治定替えされ、現在にいたっている。
 大正初期の1916年、この古墳の盗掘事件が起きた。数人が現行犯で逮捕されたことをきっかけに、各地の古墳を荒らし回っていた盗掘団の存在が明るみとなり、大量の盗掘品が警察によって押収された。当時の宮内省はただちに乱掘によって荒らされた古墳の復旧工事を実施している。その際、回収された副葬品は写真や拓本などの記録をとり、寒天で型取りして石こうを流し込んだ模造品を作成した上で、石室に戻された。
 この時の復旧工事記録は大部分が関東大震災で焼失してしまったが、幸いにも梅原末治博士の手元にその写しが保管されていた。この資料は、宮内庁によって陵墓に治定され、内部をうかがい知ることのできない巨大古墳の実態を知る上で、きわめて貴重なものとなっている。

巨大古墳の内部構造
 当時の工事記録によれば、後円部墳頂には円筒埴輪列を巡らせた方形の壇があり、その内部に竪穴式石室がある。竪穴式石室は内法の長さ8.55㍍、幅1.09㍍の大規模なものである。
 石室の両側壁は板石を小口積みにする通有のものだが、両小口の壁は大きな一枚の板石を立てている。板石は高さ、幅とも2㍍内外、厚さ30㌢ほどに切りそろえ、中央やや上に四角い孔を上下に2個並べてあけている。天井石は5枚からなり、これらもきれいに切りそろえた切石である。石室の天井面となる下面には一枚ごとに深さ5㌢ほどの内刳(ぐ)りを施し、両側面には縄掛突起をつくり出している。さらに、これらの構造全体が、大きな切石の底石の上に構築されているのである。
 このほか、石室には他の前期古墳にはみられない様々な付属施設があり、全体としてきわめて複雑な構造になっている。前期末葉の巨大古墳には、こうした類例のない内部構造が事実存在するのだ。

副葬品と埴輪
 現在知られている副葬品は大正以前の盗掘による被害も考慮すると、本来の品目のごく一部に過ぎないと思われるが、それでも銅鏡5~6面、石製腕飾類7個、刀子形・斧(おの)形・高杯形・椅子(いす)形の石製模造品7個、琴柱(ことじ)形石製品2個、管玉、石製合子(ごうす)、石製臼各1個などがある。変形方格規矩鏡3面はそれぞれ流雲文、唐草文、直弧文(ちょっこもん)で外区を飾り、いずれも面径が30㌢を超える大型仿製鏡(ほうせいきょう)の優品である。
 このほか復旧工事で出土した蓋(きぬがさ)形埴輪は高さ約1.5㍍、差し渡し約2㍍の巨大なもので、橿原考古学研究所附属博物館に模造品が展示されている。家形埴輪も精巧を極めたものであったとされるが、残念ながらいずれも現在は実物を見ることはできない。
当館総括学芸員 岡林孝作

【交通機関】近鉄西大寺駅下車、北東へ徒歩
※無断転載・転用を禁止します。
▲このページの上に戻る