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纒向遺跡(まきむくいせき)[桜井市東田・太田・辻・巻野内・箸中周辺]
 
マキムク孤文円板マキムク孤文円板
位置
 奈良盆地の東南部、万葉集に歌われた巻向山の西裾には、緩やかな扇状地形が広がっている。そこには古代に大市とよばれた場所や、垂仁天皇の纒向玉城宮、景行天皇の纒向日代宮の伝承地があり、王権の成立を伝える記紀の舞台として、注目されてきた。考古学上でも、古式土師器の出土する太田遺跡や勝山池遺跡が早くから知られていた。しかし、それらの遺跡が邪馬台国の時代を考える資料として極めて重要であることは、1971年4月からおこなわれた石野博信氏を担当とする調査をまたなければならなかった。

遺跡の確認
 発掘調査の契機は、桜井市辻・東田地区での高層住宅建設と纒向小学校の建設であった。調査の結果、予想もしない遺構群が検出された。古墳時代初頭の建物跡や祭祀遺物を捨てた多数の土坑に加えて、巨大な水路網が現われたのである。また纒向石塚古墳・矢塚古墳の調査では、それらが最も古い前方後円墳であることが判明した。石野氏は、発掘あわせて広範囲にわたる遺物分布調査をおこない、太田遺跡・勝山池遺跡が水路網を備え、縁辺には最古の前方後円墳群を付帯する、一つの遺跡であることを明らかにした。そして新たに遺跡範囲に対して纒向遺跡と命名した。

規模と特質
 纒向遺跡は、弥生時代後期の環濠集落や高地性集落が解体しはじめた時期、つまり戦争状態の続いた弥生社会が終えんとともに、こつぜんと造営された大規模遺跡である。遺跡の推定範囲は東西約1.6㌔、南北約0.6㌔を測る。南には箸中西遺跡(桜井市)、北には大豆越散布地(桜井市)、柳本遺跡、乙木・佐保庄遺跡(天理市)と、多数の前方後円墳が連なっている。それら同時期の遺跡すべてを、関連する一つの遺跡群とみることが可能であり、規模において3~4世紀の列島に比肩する遺跡はない。また纒向遺跡からは、西部瀬戸内沿岸地域から北陸・東海に及ぶ広範囲の古式土師器が出土する。古墳時代初等の同遺跡が、列島の極めて広範囲に及ぶ交流の中心地であったことを示している。

遺跡の推移
 纒向遺跡の歴史は、中心部の推移から前・後半期の二時期に区分される。前半期の中心部は、遺跡西半の太田周辺に推定される。大規模水路網はこの時期のものであり、遺跡の西辺部を北東―南西方向に延び、初瀬川に続くと推定される基幹水路と、それから分岐して南東に延び、箸中山古墳の方向へ続く基幹水路を中心としている。基幹水路は、遺存幅5~6㍍・深さ約1.5㍍を測り、矢板によって丁寧に護岸さていた。
後半期には、遺跡東半の巻野内に中心部が推定される。珠城山古墳群の北の平坦地には、断面V字形の溝に囲まれた建物敷地と思われる大規模な区画が造営されている。そこから西に下った場所からは、樋・槽を連ねた祭祀場が検出されていることからみて、先の区画の内部には、居館あるいは神殿のような建物群があると推定される。
 纒向遺跡の南東には、全長280㍍を測る箸中山古墳がある。その完成は纒向遺跡の中心部が移動した時期であるから、被葬者は纒向遺跡の前半期を治めた王者と推定される。現在は宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の大市墓に指定されているが、卑弥呼・台与の墓とする説もある。こうした説が提起されるように、邪馬台国大和説では纒向遺跡がその有力候補地の一つである。その当否は別としても、纒向遺跡が邪馬台国時代の有力遺跡であることは、疑いのない事実であり、弥生時代の終えんと古墳時代の開始を研究する上で、欠くことのできない遺跡となっている。
当研究所総括研究員 豊岡卓之

【交通機関】JR奈良線纒向駅
【展示施設】橿原考古学研究所附属博物館・桜井市立埋蔵文化財センター
※当博物館では、第1展示室と第2展示室で出土遺物を展示しています
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