アクセス 博物館トップページ > 大和の遺跡 > 古墳時代
黒塚(くろづか)古墳〔天理市柳本町〕
進む三角縁神獣鏡研究
三角縁獣帯四神四獣鏡(30号鏡)三角縁獣帯四神四獣鏡(30号鏡)
「未盗掘」の前期前方後円墳
 黒塚古墳は天理市柳本町の東、崇神天皇陵に治定されている行燈山古墳や櫛山古墳の築かれた台地の縁辺部に位置する。前方部を西に向けた全長約130㍍の前方後円墳である。1997~99年、橿原考古学研究所と天理市教育委員会、地元で組織する調査委員会によって学術発掘が実施された。  後円部中央には竪穴式石室を狙った中世の大規模な盗掘坑がうがたれ、石室は大きく破壊されていた。しかし不思議なことに、掘り下げを進めても盗掘者が取りこぼした副葬品の破片さえまったく出土しなかった。石室床面から数十㌢の間は崩れ落ちた壁材の板石で埋め尽くされており、盗掘坑はそこまで達して止まっていた。床面を覆う大量の板石は互いにかみ合い、発掘を進める私たちを難渋させたが、かつての盗掘者もまたこの板石の堆積(たいせき)に手を焼き、あと一歩のところで断念したようだ。きわめてまれなことだが、石室内の主要部分は盗掘のわざわいを免れ、手つかずの状態で残されていたのである。

地震が副葬品を守った
 竪穴式石室は内法長約8.3㍍、幅約0.9~1.3㍍、高さ約1.7㍍に達する大規模なものである。壁の下部は川原石を用いてほぼ垂直に積み上げるが、上部は二上山系安山岩・玄武岩の板石を徐々に内側にせり出しながら、上端で左右の壁が互いに接するまで積み上げている。そのため、天井と呼ぶべき部分がなく、明確な天井石もみられない。このような形態は合掌式(がっしょうしき)と呼ばれている。  こうした構造が災いしたのか、石室は中世に起きた大地震で崩壊し、大量の板石が内部に落下した。一方でこの大量の板石が盗掘者を阻み、盗掘を未遂に終わらせる結果となったらしい。その後黒塚古墳は城郭として利用され、近世には柳本藩邸の一部となり、現在まで公有地として管理されてきた。盗掘者を寄せ付けない環境が再度の盗掘を防いだといえる。

副葬品とその配列方法
 主要部分が事実上「未盗掘」の状態で保存された石室内からは、銅鏡34面のほか、刀剣類27口以上、鉄鏃(てつぞく)170本以上、特殊な形状の各種鉄製品、甲冑(かっちゅう)、農工具類、漆塗り製品、土器類など多数の副葬品が出土した。しかも大部分は埋葬当時の位置を保っており、副葬品の配列方法を具体的に知りうる貴重な資料ともなっている。  石室中央の粘土棺床上には長さ約6.2㍍の割竹形木棺が安置されていたが、その北半分をコの字形に取り囲むように、三角縁神獣鏡33面と多数の刀剣類が並べられていた。三角縁神獣鏡は原則的に鏡面を内側に向け、端を接しながらびっしりと並ぶ。木棺内でも、画文帯神獣鏡1面を北枕で安置された被葬者の頭の上に、刀剣を両側に、やはりコの字形になるように配列していた。被葬者の上半身を棺内、棺外の二重に鏡と刀剣で取り囲み、何らかの呪術(じゅじゅつ)的な効果を意識したことがうかがわれる。

三角縁神獣鏡の資料化
 黒塚古墳からは、それまでに知られていた三角縁神獣鏡のおよそ一割に近い量が一度に出土した。このことは、三角縁神獣鏡の研究を大いに活発化させた。  たとえば橿原考古学研究所では、外部の研究者も迎えて研究チームをつくり、デジタル三次元形状計測技術を応用した三角縁神獣鏡の資料化を進めているが、これも黒塚古墳の調査をきっかけに始められた新たな研究の一つである。この研究は、高精度の三次元計測技術を用いて三角縁神獣鏡を立体的に記録し、より客観的に同笵(どうはん)鏡(または同型鏡)、つまり同一の鋳型(または原型)から作られた兄弟鏡を比較検討することで、三角縁神獣鏡の製作技術、製作体制の解明を目指すものである。黒塚古墳の発掘調査から10年、この間に収集したデータは250面分を超えた。三角縁神獣鏡のより深い理解に向けて、地道な歩みを続けている。
当館総括学芸員 岡林孝作

【交通機関】JR桜井線柳本駅下車
※無断転載・転用を禁止します。
▲このページの上に戻る