アクセス 博物館トップページ > 大和の遺跡 > 古墳時代
ホケノ山古墳と箸墓古墳(はしはかこふん)[桜井市箸中]
古墳時代、ここに始まる
上空から見たホケノ山古墳上空から見たホケノ山古墳
最初の巨大前方後円墳
 箸墓古墳は、奈良盆地東南部、三輪山を間近に望む桜井市箸中にある。全長約280㍍の墳丘規模を誇る前方後円墳である。内部構造や副葬品などは全く不明だが、古墳編年の上で最古段階に位置づけられ、古墳時代の始まりを示す記念碑的な存在として重要視されてきた。名実ともに列島で最初に築かれた巨大前方後円墳であり、その圧倒的な大きさは王陵と呼ぶにふさわしい。
 箸墓古墳の重要性をいっそう高めているのは、それが纒向(まきむく)遺跡の一画に存在する事実であろう。纒向遺跡は古墳時代の初めにもっとも繁栄した巨大集落であり、日本最初の「都市」あるいは初期大和政権最初の「都宮」とも評され、畿内説邪馬台国の有力比定地でもある。

最古の古墳を求めて
 纒向遺跡には、3世紀後半に築造された箸墓古墳よりも、さらに古い時期の前方後円形墳墓が存在する。纒向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、ホケノ山古墳などである。これらは後円部に対して未発達な前方部を有し、部分的な調査によって3世紀前半代に遡る可能性が指摘されてきた。
  1999年9月、橿原考古学研究所、桜井市教育委員会および地元で組織する調査委員会によって、ホケノ山古墳の発掘調査が開始された。箸墓古墳に先行する古墳の、より具体的な実態解明が目指されたのである。1年を費やした調査は、われわれの予想をはるかに上回る知見をもたらした。

ホケノ山古墳の発掘
 ホケノ山古墳は全長約80㍍、後円部径約60㍍の前方後円墳である。墳丘には丁寧に葺石(ふきいし)が葺かれ、段築があることも判明した。
 後円部中央の埋葬施設は、川原石を積んで壁をつくり、木材で上部を塞いだ木蓋(もくがい)の石槨(せっかく)部分と、その内側に設けられた木槨部分からなる二重槨であった。このような重槨構造は、従来全く知られていなかったものである。木槨部分は長さ約6.5㍍、幅約2.6㍍の大規模なもので、内部に長大なコウヤマキ製の舟形木棺を納める。槨の上部には装飾をほどこした壺(つぼ)形土器が配列され、木部の腐朽にともなって槨内に落ち込んでいた。
 過去に部分的な盗掘を受けていたが、完形で副葬された画文帯同向式神獣鏡一面のほか、意図的に打ち割られた画文帯神獣鏡、内行花文鏡などの破片23点、多数の銅鏃(どうぞく)、鉄鏃・刀剣類・工具類などの鉄製品が出土した。これらを総合して、その造営年代は3世紀中葉と判断されている。

前史も纒向に
 ホケノ山古墳の発掘調査は、それが古墳としての諸条件をほぼ備えたものであることを明らかにした。一方で、その古さを反映して、埋葬施設構造の特殊性に代表される未定型な部分も残している。3世紀中葉の段階で、同時期の他地域の墳墓をはるかにしのぐ規模と内容をもつこのような前方後円墳の実態が、纒向遺跡の一画で確認された意義はきわめて大きい。
 そもそも古墳時代は、古墳が存在することによって定義づけられた時代区分である。ごく単純化していうと、最古の古墳が築造された時から、古墳時代は始まる。箸墓古墳は最古の巨大前方後円墳であるが、最古の古墳ではない、と私は理解している。箸墓古墳の巨大性を重視して、古墳時代の始まりを箸墓古墳の造営に求める人は今も多い。しかし、ホケノ山古墳が造営されたころには、すでに古墳時代は始まっており、その前史もまた、纒向の地に確かに刻まれていたと思うのである。  
当館総括学芸員 岡林孝作

【交通機関】JR桜井線巻向駅から南へ徒歩
※無断転載・転用を禁止します。
▲このページの上に戻る