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赤土山(あかんどやま)古墳・東大寺山(とうだいじやま)古墳〔天理市櫟本町〕
鉄刀に刻む後漢の年号
東大寺山古墳(中央)と赤土山古墳(右)東大寺山古墳(中央)と赤土山古墳(右)
東大寺山丘陵
 天理市櫟本町の東、シャープ総合開発センターのある丘陵は、かつて一帯が東大寺領だった名残から東大寺山と呼ばれている。赤土山古墳と東大寺山古墳はこの丘陵上にあって、幾度となく押し寄せた開発の波からかろうじて守られてきた。

地滑り災害のつめ跡
 赤土山古墳は丘陵の南縁に位置し、東西に延びる尾根筋の高まりを利用して築造された大型の前方後方墳としてよく知られていた。1980年代末の宅地造成計画で消滅の危機を迎えたが、各方面の努力によって保存され、1992年には国の史跡指定を受けて将来にわたる保存が約束されることとなった。
 この間、天理市教育委員会による保存のための発掘調査が継続的に実施された。その過程で、意外な事実が判明した。実は赤土山古墳は前方後方墳ではなく、残存長約107㍍の「前方後円墳」だった。過去に繰り返し発生した地滑りが、墳丘を変形させていたのである。
 後円部南斜面はとくに変形がひどく、もともと墳頂部に立て並べられていた円筒埴輪列が、現状の墳丘すそ付近まで滑り落ちた様子も確認された。また、滑落して二次的に堆積(たいせき)した土砂の中からは副葬品と見られる多数の石製品が出土していて、埋葬施設も大きなダメージを受けたと推測される。
 松本洋明氏によると、基盤層自体に地滑りを起こしやすい要因が潜んでいたことに加え、古墳の築造による大規模な地形の改変が滑り面を活性化させたことが、地滑りの主な発生原因という。最初の地滑りは古墳築造後まもなく発生したらしい。丘陵の西端に位置する東大寺山古墳も墳丘の西側を大きく失っているが、これも同様の地滑りに見舞われた可能性がある。

中平年銘鉄刀
 1961年、東大寺山古墳が天理参考館により発掘調査された。前期後葉に築造された全長約140㍍の前方後円墳で、赤土山古墳よりも少し古く、この丘陵上に最初につくられた古墳である。埋葬施設は長大な木棺を大量の粘土で包んだ粘土槨(ねんどかく)と呼ばれる形式で、この種の施設としてはもっとも古い部類に属する。すでに盗掘を受けていたが、多種多量の石製品、玉類、おびただしい量の武器・武具類など、きわめて豊富な副葬品が出土した。それらの中に「中平」の年号を記した鉄刀が含まれていたのである。
 鉄刀は長さ103㌢の内反りの刀身で、柄頭(つかがしら)は日本製のものに取り替えられていたが、正真正銘の中国からの舶載品である。刀背に「中平□(年)、五月丙午」で始まる全部で24文字の銘文が金象嵌(ぞうがん)で刻まれていた。この「中平」は、後漢末、霊帝治世の西暦184年から189年まで用いられた年号である。
 『魏志倭人伝』は、倭国が歴年にわたって乱れた末に、女王卑弥呼を共立した、と記す。その乱の時期を『後漢書』倭伝は「桓霊の間」とする。「霊」は霊帝のことであり、中平年間はその治世の最後に該当する。つまり、両書の記述による限り、この刀の製作時期は卑弥呼共立の前後に当たることになる。
 紀年銘をもつ鉄刀が中国皇帝からの下賜品である蓋然(がいぜん)性が高いことを考え合わせると、この刀の持つ意味は深長である。金関恕氏は、共立されて間もない卑弥呼が後漢に使いを遣わし、この刀を下賜された可能性を指摘しておられる。またその刀が、どのような経緯をたどって150年ほども後に築造された東大寺山古墳に副葬されたのか、その点もさまざまに想像がかき立てられる。
当館総括学芸員 岡林孝作

【交通機関】JR桜井線櫟本駅下車、東へ徒歩
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