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牧野(ばくや)古墳〔北葛城郡広陵町馬見北〕
 
玄室と石棺(正位置)

 馬見丘陵の南端で複雑に派生する尾根の先端を利用して築造された大型円墳である。1957年に国の史跡に指定されている。真美ヶ丘ニュータウンの計画、造成が進む中で、1968年に墳丘測量がおこなわれた後、1983年から1984年にかけて墳丘裾と横穴式石室の発掘調査がおこなわれ、多量の遺物が出土した。
 墳丘は三段に築成され、直径48mを測る。埴輪を有しており、葺石も有する可能性がある。石室は両袖式で、全長17.1m、玄室長6.7m、玄室幅3.3mを測る。古くから開口していたものの、発掘調査では凝灰岩製刳り抜き式家形石棺、凝灰岩製組み合わせ式家形石棺のほか、須恵器、土師器などの土器類、轡、鞍、障泥、鐙、杏葉、雲珠、辻金具、花弁形飾金具などの金銅装馬具類、銀荘飾大刀、鹿角荘飾大刀、鉾、剣、鏃などの武器類、刀子などの工具類、耳環、銀線で連ねた金銅製空玉、ガラス製玉などの装身具類、木芯金銅椀などがみつかった。石室閉塞石のすぐ外側では円筒、家、盾、人物、動物などの埴輪が出土している。
 この古墳の最大の特質は、『延喜式』に記された大和国広瀬郡所在の押坂彦人大兄皇子の「成相墓」であることが確実視されていることである。被葬者が特定できることに起因して、墳丘や石室などの遺構や出土した遺物は、暦年代と所属階層が判明する稀有な例となって、考古学では絶対に外すことのできない貴重な基準資料となっている。
 押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の皇子であって舒明天皇の父であるが、大王位に就くことは無かった。没年は概ね、舒明の生年である593年以降で、用明天皇の継承者である厩戸皇子のための経済基盤として壬生部が設置された607年までの間と考えられている。

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