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脇本(わきもと)遺跡〔桜井市脇本〕
 

 奈良盆地東南部の桜井市に位置する縄文時代~奈良時代の複合遺跡である。三輪山南麓と初瀬川北岸の間の狭い段丘上に展開し、東方の榛原~東国に通ずる玄関口をおさえていた。特に、古墳時代中期末の雄略大王の王宮である泊瀬朝倉宮の有力な候補地として著名である。
 この遺跡では、大きく3時期の遺構群が注目された。すなわち、1.弥生時代後期後半~庄内期、2.古墳時代中期後半~後期、3.飛鳥時代、の3時期である。

  1. 長さ400mの範囲内で20棟を超える竪穴建物などを検出した。特に、SB13004周辺で検出された、青銅器鋳造関連遺物や鉄器生産関連遺物などが注目される。当該期の青銅器鋳造関連遺物は、奈良盆地では東南部の脇本遺跡と大福遺跡でしか出土していない。しかも、青銅器鋳造関連遺物に銅鐸の破片や銅鏃の鋳造失敗品が含まれることが象徴するように、弥生時代の象徴的器物を破壊し、それを原料の一部にして新たな器物を製作したことが想定されるのである。それは、新たな時代を象徴する事件でもあろう。なお、当該期の王権中枢が存在していたと想定されている纒向遺跡では、同じ盆地東南部に位置しているが、今のところ青銅器鋳造関連遺物は出土していない。ただ、銅鐸の破片が出土しているので、まだ検討の余地があろう。
  2. 1と少し間を置いて、同じ範囲内で竪穴建物5棟以上、掘立柱建物5棟以上、および大規模な石貼りの池もしくは壕状遺構などを検出した。いわゆる泊瀬朝倉宮関連である可能性が高い遺構群である。盆地寄りの西側に池もしくは壕状遺構が造営され、東側の奥まったところの一段高いところに掘立柱建物群、一段低いところに竪穴建物群が配置されていたので、東国への玄関口に関所のように王宮が設置された可能性がある。
  3. 2の掘立柱建物群が展開した場所の周辺で、8間×3間の東西主軸の大型掘立柱建物を検出した。その周囲では正方位の柵状遺構が展開し、ほぼ100m四方の範囲に大型掘立柱建物群が展開することが想定された。それは、天武朝の泊瀬斎宮に関わる遺構群である可能性がある。
 以上のように、東国への玄関口にあたる狭い段丘上では、特に1~3の時期に、政治的色彩の強い遺構群が展開した。それは、王権中枢が奈良盆地に所在していた古墳時代~奈良時代の期間中、東国とのチャンネルを確保する必要性が生じたときに、出現した感がある。そういう意味でも、決して大きな遺跡ではないが、王権にとっては重要な戦略要地であると言えるであろう。
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