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下ツ道(しもつみち)(稗田遺跡・平城京三条大路・八条北遺跡)
 
下ツ道を横切る川跡と橋脚(稗田遺跡)

 下ツ道は古代につくれた大和三道の一つで、『日本書紀』の壬申の乱にも登場する。上ツ道・中ツ道と平行して奈良盆地を南北に約24kmもほぼまっすぐ通る大路で、道路幅は22~24mもある。また、下ツ道は藤原京や平城京を造営する際に基準にもなった主要道路で、平城京の場合は中軸線として利用されて朱雀大路の中央に位置している。
 平城京の造営にともなって平城京内の下ツ道側溝は埋め戻されたが、平城京より南では主要道路として利用されており、大和郡山市の稗田・若槻遺跡では下ツ道を横切る人工河川に幅18m×長さ19mもの橋脚跡がみつかっている。のちに幅12mの橋に架け替えられているが、奈良時代を通して主幹道路であったことがうかがえる。この橋の周辺や河川からは、墨書人面土器をはじめとする祭祀遺物が多数みつかった。
 また、下ツ道東側溝は幅11m、深さ2mもあって運河と呼べる規模となっている区間がある。大和郡山市の八条北遺跡では、南北約100mにわたって下ツ道を調査しており、稗田・若槻遺跡と同じく運河のような東側溝を確認した。
 この下ツ道がいつ敷設されたのかは定かではなかったが、平城京三条大路と朱雀大路の交差点における調査では、下ツ道東側溝の底に張り付くように6世紀末~7世紀初頭頃の須恵器杯蓋が出土しており、敷設年代を示す資料として注目された 。

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