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松林苑(しょうりんえん)〔奈良市歌姫町・佐紀町〕
 
西面築地塀の検出状況

 松林苑は、『続日本紀』の天平年間にだけ登場する。『続日本紀』によると、松林苑には宮が存在し、天皇が五位以上の群臣を集めて饗宴する場であった。また、騎射を行うような広い空間であり、天皇が利用する重要な場所であったことは間違いない。しかし、松林苑がどこにどのように存在したのかはわかっていなかった。
 松林苑の存在が認識されるきっかけとなったのは、1972年に行われた瓢箪山古墳の史跡整備にともなう調査である。瓢箪山古墳の東側で築地塀跡とみられる南北に延びる土塁状の高まりを橿原考古学研究所の調査担当者が確認したことに始まる。1978年の塩塚古墳の史跡整備調査でもこの土塁状の高まりの北延長部分が確認されたことを受け、橿原考古学研究所が周辺の本格的な踏査を実施した。この調査によって土塁状に残る築地塀跡の広がりを確認し、遺物の散布状況から遺構の分布範囲を推測することができるようになった。これにより築地塀に囲まれた奈良時代の広い空間の存在が確かめられ、平城宮に北接する立地や地形、遺存地割、地名考証などから、この空間は宮の所在する内郭を備えた松林苑だと考えられるようになった。
 推定された松林苑は平城宮の北大垣に接し、西は築地塀跡のある瓢箪山古墳の東側まで、東は人工的な直線となる水上池東岸までと推測され、東の境界はヒシアゲ古墳の後円部から北へ抜けるものと想定された。北は地形を考慮して尾根筋に想定された。その範囲は、東西1.1㎞、南北1.3㎞におよび、ほぼ中央を歌姫街道が南北に貫いている。
 その後、築地塀跡を皮切りとした発掘調査で検証が進められている。内郭が推定される歌姫街道の西側は微高地で遺構も多く、松林苑の中心部分だったことが確認されつつある。また、古墳の周濠を苑池として再利用したことも確認されており、松林苑の実態が見えてきた。一方で、東限とされた水上池のさらに東側でも奈良時代の遺構の発見が近年相次いでおり、新たな課題に直面している。
 コナベ古墳の南西隅の第107次調査では、苑池とみられる直線的で鉤状に屈曲する石敷きの護岸が見つかり、そこには平城遷都後まもない時期に多量の土器や瓦が廃棄されていた。また、コナベ古墳の東隣でも石敷きが確認されており、コナベ古墳の周辺は奈良時代前半に苑池として利用される場所であった可能性が高くなった。ただし、それぞれの地点での利用時期はごく短期間であったとみられることから、頻繁に新たな場所(苑池)を設けて饗宴が行われた可能性がある。第107次調査で検出した石敷き遺構の利用時期は、『続日本紀』に松林苑が登場する前である可能性が高く、松林苑の造営時期や性格、範囲を探る上でも注目される。

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