アクセス 博物館トップページ > 大和の遺跡 > 飛鳥時代
藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)〔橿原市醍醐町ほか〕
 

 藤原宮跡は橿原市高殿町・醍醐町などに所在する都城遺跡で、『日本書紀』によると藤原宮は持統8年(694)に飛鳥宮から遷都し、和銅3年(710)の平城遷都まで用いられた。藤原京は中国的な都城制による日本最初の首都であり、大宝元年(701)には大宝律令が制定・施行された日本古代史上で重要な宮都である。
 昭和9年(1934)12月から昭和18年(1943)8月まで実施された日本古文化研究所による発掘調査で、大宮土壇を大極殿跡とする朝堂院の位置と規模がほぼ確定した。昭和27年(1952)3月に国の特別史跡に指定されたが、宮全体の範囲については未確定である状況で、国道165号線バイパスが藤原宮推定範囲内を通過する計画が出され、昭和41年(1966)12月からから44年(1969)3月まで、奈良県教育委員会によって道路予定地を中心に宮域確定のための調査が実施された。藤原宮跡の発掘調査では宮域の東・西・北を区画する掘立柱列(SC175・SC258・SC140)や外濠(SD170・SD145)などを検出し、大極殿閤門を中心とする約1km四方の方形状の宮域となることが確定した。さらに宮域の確定から、藤原京の京域が下ツ道・中ツ道・横大路・阿倍山田道に囲まれるかたちで設定されたと推定された(岸説藤原京)。飛鳥から藤原を経て平城に至る7~8世紀の宮都の展開が具体的に理解できるようになったことは学術的に大きな成果である。
 藤原宮の発掘調査では木簡の出土(総数約2100点)も特筆される。日本における最初の木簡出土は昭和36年(1961)の平城宮跡であるが、藤原宮出土木簡は平城宮のものより一段階古く、大宝令施行前の実態を知る史料として重要である。
 その後、藤原宮跡を中心とする京域の調査が行なわれるようになり、岸説藤原京を裏付ける成果が現れた。その一方で、条坊道路延長上の想定京域外でも京内と同じ規格の道路が相次いで発見され、実際の藤原京は岸説よりも広範囲にわたることが確実となった。橿原市土橋遺跡で京域西端、桜井市上之庄遺跡で京域東端が検出されたことにより、現在では藤原京は宮を中心とする十条十坊の正方形になると考えられている。

▲このページの上に戻る