大柳生 水木古墳 説明会資料(1999年12月23日)


1.はじめに
 「水木古墳」は、長い間その様子がよく分からない古墳でした。1977年の冬、この場所に水道管を埋めていく工事が行われ、多くの土器や大きな石が数個出土しました。これが古墳の最初の発見でした。しかし、この時の工事の規模が小さく、古墳を詳しく調べることはできませんでした。それから20年余りの月日が過ぎ、大柳生地区の水田区画整理工事が、この地点にも及ぶことになりました。「水木古墳」全体を調べる必要があるため、1999年の11月から、発掘調査を行ないました。


2.位置と環境
 「水木古墳」は、奈良市大柳生町2077-3番地に所在します。ここは、木津川の支流、白砂川によって開かれた大柳生盆地の南東の地点で、標高287m付近に位置します。周辺には水田が広がり、今では埋もれてしまっていますが、盆地の中央に向って東から西へ伸びる小尾根上に古墳は築かれています。この古墳の周囲には他の古墳が見られず、独立して築かれた単独墳です。

3.古墳の内容
 今回の発掘調査の結果、明らかとなった「水木古墳」の様子は以下の通りです。それぞれを項目ごとにまとめてみました。
  • 古墳の形と大きさ
     「水木古墳」は、直径15mの円墳です。高さは、墳丘の一番下から上までが4mですが、上部が削られているため本来はもっと高いものと考えられます。大きさからするとこの古墳は、大柳生地域内では規模の大きな円墳であると言えます。
  • 古墳の外部施設
     墳丘の周囲には50cm〜1.0m余りの石材を垂直に積み上げた外護列石(石垣)が全周します。墳丘東側は特に良く残っており、その高さは最高所で1.2m余りあります。このように外護列石が古墳が造られた当初の姿を保ち、崩れることなく残っている事例は極めて珍しいものです。また、墳丘東側には木の柱を建てたと考えられる直径20cmあまりの穴が数個発見されました。おそらくこの柱に祖霊が宿るものと考えられます。後期古墳でこのような痕跡が発見されたのも非常に珍しい事と言えます。
  • 古墳の埋葬施設
     墳丘の中央に横穴式石室が造られています。遺体を安置したり、副葬品を納める「玄室(げんしつ)」と、墳丘の外側から玄室までの通路である「羨道(せんどう)」から成っていますが、過去に天外部分が特ち去られているため、現在は下半分だけが残されています。石室の入口(開口部)は南西方向で、通路を塞ぐ「閉塞石(へいそくせき)」も存在しました。石室の大きさは、全長約8.0m、玄室長約3.3m、羨道長約4.7m、玄室幅約1.4m、羨道幅約1.0mです。「両袖式」と呼ばれるタイプの横穴式石室で、この地域では、大型の石室に属します。玄室床面には石敷きが見られ、棺を留めるのに使った鉄釘が出土しているので、木棺が納められていたと考えられます。

  • 出土遺物
     玄室と羨道には数多くの遺物が残されていました。遺物は、須恵器約30点(杯身、杯蓋、提瓶3、はそう2、無蓋高杯2、短頚壷2等)、土師器約20点(直口壷、ミニチュア土器等)、鉄製品(鉄釘、鉄鏃4、刀剣片2等)、石製品(砥石1)、馬具等多量の副葬品が納められていました。20数年前の出土遺物を合わせるとさらに数が増えます。

4.おわりに
 この古墳は、須恵器等出土した土器類の形から見て、6世紀後半(1400年ほど前)に造られたと考えられます。水木古墳に埋葬された人物は、この古墳の規模や副葬品から考えて、古墳時代に大柳生地域を治めた首長(村長・むらおさ)クラスの墓であったと考えられます。これは、遺物の上でも豊富な土器類を持っている点や、その他に武器類や優秀な作りの馬具などが副葬品に含まれていることからも判ります。また、古墳の葬儀に関する柱列の出土など重要な発見がありました。今後、大柳生地域の歴史を語る上で、欠くことのできない古墳と言えます。

なお、この古墳は大柳生土地改良区の理解を得て、保存されることになりました。

整備中の水木古墳