宮の平遺跡 −丹生川上神社上社本殿基壇調査成果を中心として−
平成11年度発掘調査成果 記者発表資料(1999年12月16日)


遺跡名: 宮ノ平遺跡(みやのたいらいせき=丹生川上神社上社旧境内地)
所在地: 吉野郡川上村大字迫字宮ノ平
調査面積: 約5000u
調査期間: 1999(平成11)年4月15日〜
主な遺構: 神社本殿基壇跡・拝殿礎石群・神饌所基壇跡・鞘建(末社)基壇跡
縄紋時代中期末〜後期初頭の竪穴住居址・土坑・配石遺構等
主な遺物: 縄紋土器(早期〜晩期の各時期)・弥生土器(前期〜後期)
須恵器・土師器・瓦器等
石器(石棒・垂飾品・石鏃・切り目石錘・磨石・凹石・敲石・石皿・掻器・剥片石器・サヌカイトおよびチャートフレイク等)
銭貨(唐銭・北宋銭・永楽通宝・寛永通宝・天保通宝小判・明治〜昭和時代の銭貨等)
事業主体: 建設省近畿地方建設局大滝ダム工事事務所
事業内容: 大滝ダム建設


1.丹生川上神社に関する文献

丹生川上の初出
『日本書紀』神武天皇即位前紀戌辰九月甲子
「丹生川上に陟りて、天神地祗を祭る」

丹生川上社の創建伝承
『廿二社註式』
「人皇四十代天武天皇白鳳四(675)年乙亥御垂跡」

丹生川上神の初出
『続日本紀』淳仁天皇・天平宝字七(763)年五月庚午
「奉幣帛于四畿内群神、其丹生川上神者加黒馬旱也」

丹生川上社への奉幣の記録
『続日本紀』淳仁天皇・天平宝字七(763)年五月庚午 〜
『康富記』宝徳二(1450)年五月九日

丹生川上神社の四至
寛平七(895)年 『太政官符』「應禁制大和国丹生川上雨師神社界地事」
四至、東限塩匂、西限板波瀧、南限大山峰、北限猪鼻瀧

丹生川上社神階
『日本紀略』嵯峨天皇弘仁九(818)年四月丁丑:従五位下
『続日本後紀』仁明天皇承和七(840)年十月己酉:正五位上
『続日本後紀』仁明天皇承和十三(846)年九月戊戌:従四位下
『文徳実録』嘉祥三(850)年七月丙戌:正四位下
『三代実録』清和天皇貞観元(859)年正月甲申:従三位
『三代実録』陽成天皇天慶元(877)年六月壬辰:正三位
『大倭神社註進状』寛平九(897)年十二月:従二位


2.丹生川上神社所在地考証の経緯

《榛原町雨師丹生神社説》
谷川士清『日本書紀通証』:萩原川=菟田川
並河誠所等『大和志』:朝原=菟田川の朝原
飯田武郷『日本書紀通釈』・吉田東伍『大日本地名辞典』:榛原町大字雨師丹生神社=丹生川上神社
林羅山『本朝神社考』:位置不明

《下市町丹生村大字長谷説》
白井宗因『神社啓蒙』・『神社便覧』:下市之傍山中丹生村
並河誠所『大和志』:丹生荘丹生村与長谷栃本村共預祭祀
渡会延経『神社帳考証』・『神社覈録』:『神社啓蒙』・『神社便覧』・『大和志』の説を支持

《川上村大字迫説》
明治7(1874)年、丹生川上社少宮司江藤正澄説:
 『類従三代格』寛平七(895)年太政官符「応禁制大和国丹生川上雨師神社界地事」の四至に丹生村説は合わない。北限猪鼻瀧は小川郷萩原村の瀧。川上郷迫村の宮=丹生川上社。丹生川上社を口の宮、迫村の宮を奥の宮とする。

明治29(1896)内務省告示:丹生川上社を二座とする。
 口の宮=丹生川上下社、奥の宮=丹生川上上社

《蟻通神社=丹生川上社説》
大正4(1915)年 、森口奈良吉『丹生川上神社考』を著す。
★東吉野村大字小所在の蟻通神社=丹生川上社
根拠 @四至東限塩匂=大豆生の塩和田、西限板波瀧=国栖との境のイトサミの転訛、南限大山峰=川上郷との境界をなす峰、北限猪鼻瀧=萩原
A蟻通神社の祭神木造は藤原初期の彫刻
B弘長四(1264)年丹生社銘の石灯籠(県指定重要文化財)
C春日社文書『宇陀郡田地帳』「雨師荘・田五町・吉野郡小河雨師明神領」
D『類従三代格太政官符』「国栖戸百姓並浪人」の住地に近接する

大正11(1922)年10月12日内務省告示第二百六十九号:
一、郷社丹生川上神社 奈良県吉野郡小川村鎮座
祭神 罔象女神
右官幣大社丹生川上神社中社ト定メラルル旨被仰出

★丹生川上神社は祭神増加の形式をもって三社合一し、中社がその中心となる。


3.丹生川上神社上社の沿革

明治時代以前: 水神さんの祠があるのみと伝えられる。
宝暦(1760)十年初夏銘石灯籠に丹生大明神と刻まれている。
明治10(1877)年: 手水舎・社務所・詰所・一之鳥居建立
明治24(1891)年: 末社建立
明治35(1902)年: 祭器庫建立
大正4(1915)年: 鞘建建立
大正6(1917)年: 本殿・瑞垣・中門兼祝詞屋・神饌所・拝殿建立
昭和9(1934)年: 本殿修理


4.丹生川上神社上社本殿・拝殿の調査成果

 本殿基壇および礎石から推定される拝殿の主軸は、NEーSWである。本殿に関連する遺構は、現段階で大別5時期、拝殿に関する礎石遺構は大別4時期が確認されている。それらを以下に列記する。

a.本殿基壇A(幕末〜昭和)
 基壇は正方形の平面形態を呈するものと推定され、一辺10.5m×高さ3mの規模を有する石積み・石垣基壇である。前面に階段状の突出部が付属する。石垣は、正面と背面の遺存状態が比較的良好なものの、両側面については現本殿にかかわる擁壁工事の際に破壊された模様で、裏込めの石積みが露出している状況であった。基壇上には、石灰岩の白色玉砂利が厚く敷きつめられていた。ただし、現本殿造替の際に改変が加えられたようで、建物に伴う遺構は検出できなかった。

b.本殿基壇B(江戸時代後期〜)
 基壇はNEーSW方向に長い長方形の平面形態を呈し、長辺10m×短辺8m×高さ2.1mの規模を有する石積み・石垣基壇である。前面に階段状の突出部が付属する。石垣は、基底から3石程度が旧状を留めるのみで、それより上は裏込めの石積みが露出している状況であった。基壇上には、石灰岩の白色玉砂利が厚く敷きつめられており、その上面において建物に関わる柱穴が4基検出された。いずれも、自然石による根固めが施されていた。柱穴径は約30p、深さ20pである。これから推定される建物は、NWーSE方向に長軸をもち、柱間は2m×1.8mの規模を有する。玉砂利敷き面からは、賽銭と思われる銭貨が出土した。それらは、寛永通宝のうち新寛永銭後期のものが主体を占めていた。したがって、この基壇は江戸時代後期には存在していたものと考えられる。

c.本殿基壇C(江戸時代中期〜)
 基壇はほぼ正方形の平面形態を呈し、一辺8m×正面高0.4m・背面高0.8m〜1.35mの規模を有する石積み・石垣基壇であるが、その基壇のNWーSE中軸線より北側にもう一段高い長方形の基壇を有する(以下、長方形壇と記す)。その規模は、長辺4.2m×短辺3.2m×高さ0.3mである。長方形壇の上面は、基壇Bの造替の際に改変が加えられたようで、建物に伴う遺構は検出できなかった。長方形壇前面の一段低い基壇上面には、石灰岩の白色玉砂利が厚く敷きつめられており、そこから賽銭と思われる銭貨が出土した。それらは、寛永通宝のうち新寛永銭前期のものと古寛永銭前期のものとがほぼ同数出土した。したがって、この基壇は江戸時代中期には存在していたものと考えられる。

d.本殿基壇D(12世紀末・13世紀初頭〜)
 基壇は土石混合積み石垣基壇で、長方形壇前面に玉砂利敷き面を有する。前面の玉砂利敷き面は、黒色の玉石を敷き詰めた面(a期)、黒色の小砂利を敷きつめた面(b期)、石灰岩の白色玉砂利を敷きつめた面(c期)の3時期が確認された。a期が最も古く、この時期の長方形壇は、長辺6.6m×短辺4.6m×高さ0.6mの規模を有する。b期の基壇は、a期のそれを踏襲し、石垣を一石分積み足している。c期の基壇は、上面で6.4m×7m×高さ0.9mの一段目区画を作り、その上にa・b期の基壇を利用して長辺4.6m×短辺2.6m、高さ0.4mの長方形壇を形成している。方形壇上面には7基の礎石が遺存していた。このうち北角の礎石は元位置をたもっていなかった。元位置を保つ礎石の柱間は、長辺側がそれぞれ1.3m、短辺側が1.7mである。礎石の上面には、朱塗り円柱の当たり痕跡が存在する。中央の柱間には、黒色の玉石が敷かれ、そこから北宋銭が4点出土した。礎石から推定される建物には、二案がある。その一は、1間×3間の身舎に、庇がつく流れ造りの建物である。その二は、庇つきの1間×1間の建物が二棟並んでいるというものである。
 長方形基壇内からは、大量の縄紋土器・土師皿片や須恵器片・北宋銭が等が出土した。出土遺物からこの基壇の造営時期の上限は、12世紀末から13世紀初頭頃と考えられる。

e.配石遺構(本殿基壇D以前)
 NWーSE方向に中軸線を有する長方形の遺構である。自然石を敷き並べたもので、その規模は長辺約5.4m(18尺)×短辺約3m(10尺)×高さ約0.2mである。配石遺構の上面のレベルは一定ではなく、ここに建物が存在した可能性は低いものと考えられる。この遺構に確実に伴う遺物は出土していないが、本殿基壇D造営以前の神社関連遺構であることは疑う余地がない。


5.まとめ

 丹生川上神社は、天武天皇創建の伝承をもち、奈良時代後半から室町時代にかけて、京より祈雨・止雨の幣帛使がたびたび派遣されたことで知られる雨師神が祀られた神社であった。また、『日本書紀』神武天皇東征段に「丹生川上」の記述があることでも明らかなように、少なくとも『日本書紀』編纂段階に於いて、丹生川上の地が国家祭祀にとって重要な場所であったことは明らかである。しかしながら、応仁の乱から戦国時代へと続く混乱により、丹生川上神社への京からの使いが途絶え、文献上からも姿を消し、久しくその所在は不明であった。幕末から明治・大正期の所在地考証によって、現在は下市町長谷の下社、東吉野村小の中社、川上村迫の上社がその候補地と考えられ、それぞれに雨師神が祀られて今日に至っている。
 今回の調査によって、丹生川上神社上社は、新しく見ても平安時代には存在している可能性が高くなった。しかも、この神社は、その時代から遷座する平成時代まで同地に於いて連綿と造替を繰り返していたことが明らかとなった。吉野川最上流域に存在する丹生川上神社上社は、おそらくその当初から祈雨・止雨の神として祀られていた可能性が高いと考えられる。しかしながら、このことによって、丹生川上神社上社=丹生川上社として直結させることはできない。その結論は、将来、中社・下社の発掘調査の実施をまって明らかになるものと思われる。したがって、今回の調査成果は、あらためて丹生川上社を考える上での一資料を提供したという点に尽きるといえよう。