|
天理市マバカ古墳隣接地(成願寺遺跡)の発掘調査
現地説明会資料(2004年8月29日)
1.はじめに
奈良盆地東南部には多くの前方後円墳・前方後方墳が営まれており、これらを大和(おおやまと)古墳群と称しています。そのうち北部の天理市萱生(かよう)町・成願寺町・中山町周辺に広がる古墳群を萱生支群(萱生古墳群)と呼んでいます。萱生支群の古墳は東の竜王山から延びる尾根地形を利用してつくられており、最も北側の尾根には、東にヒエ塚古墳(前方後円墳・全長130m)、西にノムギ古墳(前方後方墳・全長63m)があります。谷地形をはさんで、この南側の尾根には東に波多子塚古墳(前方後方墳・全長140m)、西にマバカ古墳(前方後円墳・全長74m)があります。 県道天理環状線建設に伴って実施した今回の調査地は、マバカ古墳の北側から谷地形にあたる位置になります。調査地内ではマバカ古墳の前方部北側に接して「濠(ほり)」を確認し、調査地北半では河川跡を確認しました。 2.マバカ古墳の「濠」 マバカ古墳の前方部北側で確認した「濠」は、後世の開墾などで上部が大きく削り取られており、底に近い部分が東西2か所に分かれて残っていました。このため、もとの詳しい形状はわかりません。東側部分は南北幅5m・東西幅2mを測り、深さは10cm程しか残っていませんでした。西側部分は南北幅10m・東西幅9mを測り、東が浅く西が深くなっています。この西半に一段低く掘り込まれた部分があることからみて、「濠」の底面は段状になっていた可能性があります。こうした底面の形状から、水をたたえるための濠ではなかったと推測できます。「濠」の堆積土の中からは古墳時代初めの土師器が少量出土していますが、古墳の造営年代を決めるほどの良好な資料とは言えません。 3.河川跡 調査地北半では、東から西に向かって流れる2条の河川跡を検出しました。北側の河川跡は南北幅約4m・深さ2m以上で、現在のところ遺物が出土していないため、詳しい時期はわかりません。両河川跡の堆積状況から、北側の河川跡が埋まった後に南側に河川跡ができたと考えられます。 南側の河川跡は南北幅27mで、堆積層は大きく2層に分かれます。出土した遺物からみて、中世と古墳時代の堆積層です。後者はさらに上下2層に分かれますが、上層では中央西よりの部分から、古墳時代後期の須恵器(有蓋高杯4組・高杯1点・杯身4点)がならべられた状態で出土しました。下層では南側部分から、古墳時代前期の埴輪片が出土しました。さらにその下からは古墳時代初めの土師器が比較的多く出土しました。完形またはそれに近い状態を保っているものも少なくなく、これらは付近で廃棄されたものと考えられます。 4.まとめ 2002年度に実施されたマバカ古墳の墳丘西側の調査でも「濠」が検出されています。今回の調査で確認した「濠」はこれに続くものですが、遺存状態が悪く「濠」の詳しい形状を復元することは困難です。しかし、2度の調査結果からマバカ古墳の「濠」は少なくとも前方部西側から北側を巡るような形で掘られていたと考えられます。 また、「濠」から北へ15m離れた位置で検出した南側の河川跡は、出土遺物からみて、マバカ古墳が造営された頃には河川として機能していた可能性が高いと考えられます。 マバカ古墳墳丘本体についてはほとんど調査が行なわれておらず、墳丘や埋葬施設の内容は判然としません。このような中で、墳丘周囲の状況の一部が明らかになったことは貴重な成果です。 ![]() 第1図 調査地と周辺の古墳 83.馬口山古墳 84.ノムギ古墳 85.ヒエ塚古墳 86.マバカ古墳 87.栗塚古墳 88.西山塚古墳 89.空路空山古墳 90.火矢塚古墳 91.燈籠山古墳 92.中山大塚古墳 93.小岳寺塚古墳 94.二ノ瀬池古墳 95.西殿塚古墳 96.東殿塚古墳 102.行燈山古墳 109.渋谷向山古墳 112.星塚古墳 113.フサギ塚古墳 114.波多子塚古墳 115.下池山古墳 124.箸墓古墳 ![]() 第2図 マバカ古墳と調査地 (2002年度調査部分は『奈良県遺跡調査概報』2003掲載図から作成) ![]() 1.マバカ古墳と調査地(北方上空より:下が北) ![]() 2.マバカ古墳の「濠」(北から) 「濠」の西側(右)部分の西半が一段深く掘り込まれている。左後方がマバカ古墳 ![]() 3.河川跡(南から) 調査地後方、右がヒエ塚古墳、左がノムギ古墳 ![]() 4.須恵器出土状況(西から) 南側の河川跡、古墳時代堆積層の上層から出土 ![]() 5.はしご出土状況(南から) 南側の河川跡、古墳時代堆積層の下層から土師器とともに出土 ![]() 6.土師器出土状況(東から) 南側の河川跡、古墳時代堆積層の下層から出土 本資料は、奈良県立橿原考古学研究所 高木清生が作成した。 |