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達磨寺石塔埋納遺構 現地見学会資料(2002年9月23日)
1.はじめに
達磨寺は片岡山と号する臨済宗南禅寺派の寺院であり、『日本書紀』推古天皇21年(613)12月条に記される片岡尸解仙説話を創建由緒とする。聖徳太子が片岡で出会い、助け、埋葬したという「飢者」が平安期の聖徳太子信仰にともなって達磨大師の化身で、その廟が達磨寺3号墳であるという解釈が生まれ、達磨廟とされた古墳の上に土塔が造られるなどした。寺院として開基されたのは13世紀初め、勝月房慶政によると考えられる。その後、興福寺などの焼討に遭い境内を焼失、15世紀初めには足利将軍の支援を得ながら大規模に中興されたものの、再び松永久秀の兵火に罹って荒廃したとされる。近世には、徳川将軍より30石の朱印地を得て、大和国葛下郡門前村を領地とした。寺蔵の木造聖徳太子坐像(建治3年〔1277〕)、木造達磨坐像(永享2年〔1430〕)、達磨寺中興記石幢(文安5年〔1448〕)、絹本著色涅槃図(平安後期)が重要文化財に指定され、方丈(寛文7年〔1667〕)が奈良県指定文化財となっている。 今回の調査は達磨寺の本堂新築にともなう事前調査が発端である。この調査で現在の本堂基壇の下層に遺存していた近世以前の本堂礎石列とは並ばない石材1基を検出した。精査したところ、石材の下部が空洞であること、その内部に石塔らしいものが据えられていることが目視できた。そのため、この地下構造物と内部の石塔の詳細を解明するため、引き続き王寺町教育委員会と奈良県立橿原考古学研究所が共同で調査にあたることとなった。 ![]() 2.調査の概要 先の調査で旧本堂基壇上で検出した板石を取り外したところ、握り拳大から人頭大の自然石と瓦で構築された小石室の内部に石塔が立てられている状況が確認された。小石室は一辺約50p・深さ約80pで、側壁は下が花崗岩の自然石の乱積みで上端部は平瓦が積まれていた。石塔は幅約31.5p・総高約73.5p、二上山周辺産出の流紋岩質凝灰角礫岩製で 、笠部・塔身部・基礎部の3部材からなる。笠部は基本的には宝篋印塔の形態をとるが、下端の段が省略され、かわりに下辺に反りを持たせるという五輪塔の意匠がみられ、典型的な宝篋印塔とは異なる特異な形態をしている。立方体の塔身部には方孔が彫り込まれ、その中に合子1点が納置されていた。宝篋印塔にみられる相輪部は無く、笠部の上に伏鉢・請花に相当する部分が笠部と同じ一材から形作られている。全体に装飾や文様、銘文は無く、非常に簡素な作りといえる。合子は土製で蓋と身からなり、最大径9.0p・総高は7.5pである。合子の中には水晶製五輪塔形舎利容器1点のみ納入されていた。水晶製五輪塔形舎利容器は幅約1.0p・総高約2.5p・重さ約4.4gで、地輪・水輪・火輪と風輪・空輪の2部材からなる。火輪上部から水輪にかけて舎利孔が穿たれ、風輪の下部に作り出されたほぞで栓をするようになっている。舎利孔の中には舎利1粒が入れられていた。舎利は水晶製とみられる。幅約2.8o・厚さ約1.3o・重さ0.02gで、形状はハート形を呈している。 石塔は装飾などが省略された簡素なものであること、宝篋印塔であるならば当然あるべき相輪が請花に相当する部分で完結していること、小石室の規模が石塔よりひとまわり大きい程度であること、石塔が凝灰岩という軟質な石材で作られているにもかかわらず全く風化していないことなどから、当初から地下に埋納するために製作されたものと考える。なお、小石室内に石塔を設置した後、その北西隅の小石室側壁との隙間に火葬した人骨がごく少量散骨され、その上にさらに土を入れて宝篋印塔を据え付けている状況も確認した。 今回の調査では、その年代を具体的に示すものは得ることができなかった。小石室の構築は使用されている最も新しい平瓦の年代である鎌倉時代が上限年代で、小石室の蓋石を覆っていたの松永久秀の兵火による焼土層の年代16世紀後半が下限年代である。石塔は一見すると宝篋印塔の形態をベースにしてはいるものの、現状では他に例をみない形態であるため、断定的にその年代を述べることは困難である。ただし、宝篋印塔の意匠である笠部隅飾の形態や、五輪塔の意匠である笠部下辺の反りの形態を評価するならば、鎌倉時代後期から南北朝時代のものと考えることができる。水晶製五輪塔形舎利容器はその形態から鎌倉時代後期のものとみられる。 ![]() ![]() ![]() 3.まとめ ●今回調査した遺構は本来地上に立てられるべき石塔を地下の石室に埋納し、その上に建物を建てているということが最も特筆すべき点である。本例は上述した諸々の状況から判断して、当初から石塔を埋納することを目的に石室を構築したものと考える。このような事例は全国的にも極めて珍しいものである。この石塔は、主として墓塔として用いられる五輪塔よりは、本来は供養塔としての意味あいが強い宝篋印塔に近い形態をしていることから、本例も達磨寺創建の由来である達磨大師を供養することを目的としたものと推定する。 ●水晶製五輪塔形舎利容器を埋納した背景には、禅宗における舎利信仰だけでなく、当時奈良を拠点に活動した叡尊、忍性などの律宗僧を中心とした舎利信仰の流行なども深く関わっていたものと推定する。また小石室内から出土した火葬骨はごく少量であること、出土位置が石塔の内部や下部からではなく石室側壁と石塔の隙間からということから、石塔への埋葬者ではなく、石塔の埋納以前に達磨寺と非常に深い関わりのあった人物のものを他所から分骨し、ここへ散骨したものと考える。 ●石塔を埋納した小石室は今回の調査に先立って検出した旧本堂の中軸よりは若干西にずれた位置にあるが、拝堂基壇のトレンチで検出した14世紀以降の参道跡の中軸線そして本堂背面に1448年に造立された中興記石幢の延長線上に位置している。埋納年代をこれらに合わせて考える必要は必ずしもないが、中軸線をかなり意識していたことは間違いない。この石塔埋納遺構の造営時期は水晶製五輪塔形舎利容器の型式、石塔の型式と小石室の構築に用いられた瓦の年代観、拝堂部トレンチで確認した整地層や参道の年代などを考え合わせると、14世紀前半と考える。この時期、達磨寺は嘉元3年(1305)に興福寺の焼き討ちによって焼失した後の復興期にあたり、その様子が文献史料や境内に現存する石灯籠の銘文などから知られる。今回確認した石塔埋納遺構は、この時の達磨寺の復興に際してその根本として諸堂塔の再建に先駆けて本堂再建地の中軸に構築され、舎利が埋納されたものと推定する。 ![]() 石塔検出状況 ![]() 石塔塔身内合子出土状況 ![]() 合子内水晶製五輪塔形舎利容器出土状況 ![]() 水晶製五輪塔形舎利容器 ![]() 舎利 本資料は、奈良県立橿原考古学研究所技師山田隆文が作成した。 |