吉野郡川上村 宮の平遺跡 現地説明会資料(2000年10月22日)
−縄紋時代の遺構・遺物を中心として−


【遺跡名】 宮の平遺跡(みやのたいらいせき)
【所在地】 吉野郡川上村大字迫字宮の平
【調査面積】 約5000u
【調査期間】
 1998(平成10)年7月1日〜8月20日(試掘調査)
 1998(平成10)年10月1日〜1999(平成11)年2月15日
 1999(平成11)年4月13日〜12月25日
 2000(平成12)年5月11日〜10月31日(予定)
【主な遺構】
 縄紋時代早期・前期・中期・後期の土坑群
 縄紋時代中期末〜後期初頭の竪穴住居址・立石・配石遺構等
【主な遺物】
 縄紋土器(早期〜晩期の各時期)
 石器(石棒・垂飾品・石鏃・切り目石錘・磨石・凹石・敲石・石皿
 掻器・剥片石器・サヌカイトおよびチャートのフレイク等)


T.遺跡周辺の地理的・歴史的環境
 台高山脈に源を発する吉野川は、吉野郡川上村内の狭隘な谷間を蛇行しながら北西方向に流れている。吉野郡川上村大字迫字宮の平に所在する遺跡は、この吉野川左岸の河岸段丘上に立地する。遺跡が立地する河岸段丘は、吉野川に平行する形で細長い平坦面を有する下位段丘面と、隅円方台状に幅広い平坦面を有する上位段丘面とから成り立っている。上位段丘面は標高約286m、下位段丘面は標高約279mで、上下の段丘面の比高は約7mを測る。
 遺跡に立つと、北西側と南東側は谷によってやや視界が開け、南西側は標高1087.3mの高原山、北東側は標高1176.9mの白屋岳によって視界を遮られている。試掘調査以前、下位段丘の南半部には民家が建ち並び、上位段丘面および下位段丘面の北半部は丹生川上神社上社境内地となっていた。

遺跡地形図

 境内地には、奈良県で極めて珍しい暖地性植物であるルリミノキ・ミヤマトベラ・サカキカズラの自然分布が見られ、1954(昭和29)年3月に「丹生川上神社上社境内暖地性植物自生樹叢」として奈良県天然記念物に指定された。また、丹生川上神社は、大和神社の別宮で、平安中期以後二十二社の一つに数えられている。戦国時代の乱世の世に衰退し、長らくその所在が明らかではなかったが、明治から大正時代の考証によって、現社地は丹生川上神社上社とされた。丹生川上の神は、別名雨師神とも称され、祈雨・止雨の信仰を集めているが、その歴史は古く天武天皇白鳳乙亥年(675)に遡るとされている。川上村に関わる古代の記録・伝承は僅少である。中世には、後南朝に関わる記録や伝承が多く残されている。

U.調査に至る経緯
 1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風の災害を契機として、当時川上村内に計画中の大迫ダム建設計画が一部変更され、洪水調節機能を第一の目的とする大滝ダム建設計画が策定された。これによって、丹生川上神社上社境内地は水没するため、現社地より南西側の高台に遷座することとなった。これに先立ち、1987(昭和62)年10月境内神木の欅の抜根作業が行なわれた。その際、欅の木の根元より多数の縄紋土器が出土し、この地が縄紋時代の遺跡であることが判明した。1998(平成10)年に神社の遷座が終了したため、その年の7月1日から試掘調査に着手し、その成果に基づいて、足かけ3年に及ぶ調査が実施された。

V.調査の目的
 平成10年度に実施した試掘調査の結果、縄紋時代の遺構・遺物(中期末から後期初頭を中心とする)は、上下両段丘面のほぼ全面に広がっていることが推定された。下位段丘面からは切り目石錘・磨石・石皿・凹石等の石器類が多く出土したため、本遺跡における生業活動の復原が一つの目的となった。また、吉野の山間部に所在する遺跡が定住型の集落であったのかどうかというような、遺跡の性格を明らかにすることも調査の目的となった。

W.結 果
遺跡の継続時間 出土した土器型式から推定される遺跡の継続時間は、縄紋時代早期から晩期にわたる。したがって、草創期を除いて、縄紋時代早期以降、縄紋人がこの遺跡に訪れてなんらかの行為を行なっていたことはほぼ間違いない。ただし、全土器型式が出土しているわけではないので、「断続的に」と言う表現が正しいものと言える。出土遺物が最も多い時期は、縄紋時代中期末から後期初頭の時期(今から約4000年前)である。

主な遺構
  • ピットおよび土坑と呼ばれる穴 現在まで上位段丘面で約100基、下位段丘面で約150基を検出した。土坑の中には、配石を伴うものが多数含まれている。
  • 竪穴住居址5棟 いずれも下位段丘面で検出されている。平面形態は円形で、その規模は直径4〜6mを測る。中央に炉をもつ。このうち1棟は柄鏡形の平面形態を呈する可能性が高い。
  • 立石遺構 下位段丘面で検出された。完全に直立しているものが1基。やや傾いているものの直立していた可能性が高いものが2基。原形を保っている1基は、下位段丘面中央よりやや北側で検出された。遺構検出面から約30pほど突き出ている。根元には、円形または楕円形の礫3個が寄り添うように置かれている。石材は、吉野川(紀ノ川)流域で一般的に採取できる緑泥片岩である。現状では、加工痕跡は認められない。
  • 環状配石遺構 下位段丘面および斜面傾斜変換点において検出された礫の集合体を、仮に環状配石遺構と総称しておく。これは、縄紋遺跡発見の端緒となった欅の根元を掘り起こした穴(長軸10m×短軸9m×深さ3m)を取り囲むように、半円弧を描いている。その規模は、外周で直径約30m。東側は下位段丘面の崖線で途切れているが、本来は円形に配置されていたものと思われる。吉野川の浸食作用によって、東半部は失われてしまったものと考えられる。
     この遺構に用いられている礫の大きさは、拳大のものから一辺が2mをこえる巨岩までまちまちである。基本的には、吉野川の河原で採集できる緑泥片岩や石灰岩および地山に含まれるチャートや砂岩系の礫が用いられている。これらの礫の間の各所から、土器片や石鏃・磨石・凹石・石皿などの石器類が出土した。
     環状に配された礫の集合体の中には、礫のまとまり(ブロック)が認められた。あるものは、その上に一抱えほどの大きさの円礫や平石が置かれていた。また、それらのブロック下には土坑を伴うものがあり、その中から埋甕(故意に底部を打ち欠いた土器を正位の状態で据え置いたもの)が出土したものもある。

X.調査成果−1
1.遺跡の変遷
 早・前期 この時期の遺構は、小規模な土坑のみである。早期については、大川式〜高山式までの押型紋土器や撚糸紋系の土器片が出土していることから、かなり長期間にわたってこの遺跡に人々が訪れ、生活をしていたものと思われる。前期については遺物量が少なく、遺跡の利用された期間は短かったものと推定される。
 中・後期 この遺跡の中心的時期は、中期末から後期前半の時期である。中期末から後期初頭の遺構・遺物がもっとも多い。下位段丘面で検出された5棟の竪穴住居址は当該期の所産と考えられる。3棟の住居址が重複しているため、同時存在した住居の棟数は2〜3棟と推定される。住居廃絶後に石を並べる行為が行なわれ、その行為は後期前半まで継続したものと考えられる。
 後期末・晩期 少量の土器片が出土しているが、明確な遺構は確認されていない。前時期に比べると人の往来は減少したものと考えられる。
 縄紋時代以後 弥生時代前期の所産と考えられる複数の土坑が存在する。また、出土した土器片には、中・後期のものが僅かながら存在する。前時期と同規模の人の往来が継続していたようであるが、古墳時代の遺構・遺物は全く存在しない。次に時期が明確となる遺物は、9世紀後半以降のものである。

2.環状配石遺構の構造
 この遺構を復元すると、外周で直径30mの規模を有するものと推定される。帯の幅は約7mである。この遺構には、当時の地表面から礫が積み上げられている場所とやや土が堆積した後に礫が積まれている場所とがある。また、出土した土器片にも中期末から後期前半のものが含まれていることから、これは同時期に一度に構築されたものとは考えられない。縄紋時代の人々がもっていた円形の原理に基づいて、長期間にわたって少しずつ礫が配されていったものと考えられる
 配石と住居址の関係がもっとも明確な5号住居址の場合をみると、住居廃絶後その埋土の上面に礫が円形に配置されていた。これは、廃屋儀礼的な意味を有しているのかもしれない。また、埋甕を伴う105号土坑の上にも配石が存在した。これは、埋葬行為に伴う可能性が考えられる。したがって、いくつかの要因で並べられた礫が、結果として環状配石遺構として認識されるものとなった可能性が考えられる。

3.立石遺構
 前述したように立石遺構は、環状配石遺構の北側、つまり、外側に存在した。3基のうち2基は緑泥片岩の川原石が利用されている。細長い棒状のもので、青緑色、または、緑青色を呈する。加工痕跡が認められないため、転倒した状態で出土した場合、自然石として認識されてしまう可能性が高い。配石遺構の南側や配石遺構内にも同様の石約10点が転倒した状態で出土した。おそらく、それらの石も本来は直立していたものと考えられる。上位段丘面の北よりの地点でも、同様のものが倒れた状態で出土し、その付近から磨石等の円礫がまとまって出土した。
 ところで、環状配石遺構、いわゆるストーンサークルとして著名なものに秋田県大湯に所在する野中堂遺跡・万座遺跡(通称、大湯環状列石)がある。縄紋時代後期の所産で、その内側に日時計と称される立石遺構が存在する。山梨県金生遺跡は、縄紋時代晩期を中心とする大規模な配石遺構群として著名であるが、これは加工を施した石棒が配石遺構内に林立していた。これらの例から、本遺跡下位段丘面で検出された立石は、おそらく環状配石遺構と有機的に結びついているものと思われる。

4.出土遺物
 遺物については、整理途上のため正確な実数を把握し切れていないのが現状である。したがって、調査中の所見からその概要について若干述べておく。
 石器類では、磨石・凹石・石皿・切目石錘の出土量が多い。とくに、切目石錘の出土量は300点以上にのぼる。磨石・凹石類の出土量も200点は下らない。前者は漁労具、後者は堅果類の加工具として用いられたと考えられているものである。したがって、本遺跡においては、かなり多くの人々の営みを推定することができる。
 特筆すべき遺物はあまり多くないが、石製垂飾品1点、水銀朱塗彩土器片1点が出土した。いずれも、下位段丘面の遺物包含層中から出土した。

Y.調査成果−2
1.遺跡の性格
 本遺跡の性格は、二つの側面をもっている。まず、第一は吉野川最上流部における集落としての側面である。検出された竪穴住居の棟数は少ないが、生活用具としての土器・石器の出土量が多い。このことから、長期滞在型の集落ではなかった可能性が高い。遺跡の立地から、冬場は降雪が多く、食料の確保が困難であった事が考えられるため、春から秋の間だけ滞在する、いわゆるキャンプサイト的なものであったと思われる。本遺跡は、吉野川最上流部の山間部に所在するが、台高山地を越えれば三重県に至り、また、大峯山脈や吉野川沿いに和歌山県へも至ることができる。したがって、奈良盆地をも含めたこれらの範囲に生活していたであろう縄紋時代の人々の集団が、山川の豊富な幸を求めて、一年の内の限られた期間、本遺跡を生活の拠点としていた可能性が考えられる。
 第二は、祭祀空間としての性格である。長野県阿久遺跡に代表されるように、縄紋時代の人々が大規模な配石遺構を構築するのは、縄紋時代前期に始まる(大阪府神並遺跡のように早期の例も若干知られている)。ただし、これは限られた地域における出来事であり、列島規模で行われるようになるのは、縄紋時代中期後半以後である。そのような点では、本遺跡における配石遺構の存在は、当時の社会状況に呼応しているといえる。

2.立石を伴う環状配石遺構
 縄紋時代における配石遺構は、けっして珍しいものではない。近畿地方では、1995年の段階で57遺跡において確認されている。大規模な例としては、大阪府仏並遺跡(中期末〜後期)・三重県天白遺跡(後期後半)などがある。ただし、多くの遺跡は調査面積が狭く、全体像を知りうるものは少ない。近畿地方における立石遺構は、兵庫県東南遺跡(後期後半)・滋賀県起し又遺跡(後期)・大阪府向出遺跡(後期末)・奈良県布留遺跡(後期?)などに類例がある。いずれも、自然石が用いられている。
 このように、それぞれの遺構の類例は、近畿地方の各所に存在するが、立石を伴う環状配石遺構の確認は、近畿地方に他に例がなく、重要な調査成果といえる(ただし、東南遺跡例は配石を伴う立石と紹介されており、本遺跡と同様の構造を有する可能性がある)。
 東日本における立石を伴う環状配石遺構の例では、立石は環状配石遺構の内側に存在する場合が多いという。本遺跡においては、環状配石遺構の外側およびそれと重なる形で存在したものと考えられ、両者の在り方に多少の相違が認められる。この現象が地域的な特徴であるのどうかという点については、今後の類例の検出を待たなければ結論が出ない。
 近畿地方においては、明確に環状配石遺構とされる類例が皆無に近い。奈良県においては、当研究所が調査を実施した竹内遺跡(晩期)において、その可能性が指摘されているのみである。
 本遺跡における配石遺構の構築は、竪穴住居の廃絶後に開始されているようである。東日本では、長野県北村遺跡に類例がある。この遺跡の場合は、竪穴住居廃絶後、その場所が墓域となり(人骨多数が出土したことで著名)、さらにその上に礫が配されていた。時期は、縄紋時代後期中葉。本遺跡においても、配石下に土坑が存在しており、その中から埋甕が出土したものが1基存在する。土壌の性格上人骨が遺存しないため、本遺跡で検出された土坑が墓であると断定することはできないが、埋甕の存在がその可能性を示唆している。したがって、北村遺跡と本遺跡は同様の過程をたどった可能性も考えられる。
 なお、縄紋時代中期末から後期前半期の埋甕(埋設土器)は、近畿地方において14遺跡39例ほどが知られている。内訳は、大阪府2遺跡3例・滋賀県3遺跡19例・奈良県3遺跡8例・三重県6遺跡9例である。

Z.結語
 足かけ3年に及ぶ調査の結果、本遺跡は吉野川最上流部に位置する大規模な縄紋遺跡であることが判明した。縄紋時代早期から晩期にかけて、断続的に人々が訪れ、豊富な山川の幸を糧として生活を送っていたことが想像される。縄紋時代中期末から後期前半頃には、近畿地方では未だ例を見ない立石を伴う環状配石遺構が構築され、この遺跡が単なる生活空間としてだけではなく、祭祀的な空間として利用されていたことが判明した。近畿地方および西日本における縄紋時代研究に新たに重要な資料を提供することとなった遺跡も、2年後には大滝ダムの湖底に没することとなる。