桜井市 勝山古墳第4次調査 記者発表資料(2001年3月26日)


【遺跡名】 勝山古墳(かつやまこふん)
【調査地】 桜井市東田町字勝山
【調査期間】 2001(平成13)年1月15日〜3月22日
【調査面積】 第1調査区(T−8) 131u
 第2調査区(T−9) 135u
 第3調査区(T−10)  62u
【調査担当】 調査第2課 橋本裕行・南部裕樹
【主な遺物】 U字形鋸歯紋線刻板状木製品・木製鋤・円筒形樹皮製品
 建築部材・板材・加工木
【事業名】 国営総合農地防災事業
【事業主体】 近畿農政局大和平野農地防災事業所


T.遺跡の位置と歴史的環境
  当研究所が編集した「磯城・磐余地域の前方後円墳」『奈良県史跡名勝天然記念物調査報告』第42冊によれば、勝山古墳は墳丘長約100m、後円部径約60m、前方部長約30m、東北面する前方後円墳で、その築造時期が庄内式期に遡る可能性が高い古墳の一つとして報告されている。この古墳は、奈良盆地の東南部に位置し、三輪山の北側から西流する巻向川が形成した扇状地上に立地する。この扇状地は、東西方向に延びるいくつかの微高地よりなるが、勝山古墳が立地する通称太田北微高地上には、他に纒向石塚古墳・矢塚古墳が近接して存在する。纒向石塚古墳は勝山古墳の南東約100m、矢塚古墳は勝山古墳の南西約100mに位置し、また、勝山古墳の南南西約400mには東田大塚古墳が存在する。纒向古墳群とも称されるこれら4基の古墳は、いずれも古墳時代前期前半に築造されたものと推定され、初期大和政権に関わる被葬者が葬られたと考えられている。
  また、巻向川が形成した扇状地上には、古墳時代前期初頭から形成される纒向遺跡が存在し、この遺跡が初期大和政権の中枢と目されている。今回の調査は、纒向遺跡の調査次数に照らすと、第122次調査にあたる。

U.調査に至る経緯
  農林水産省は、奈良盆地内に所在する約105ケ所の溜池について、農地防災の観点(築堤の老朽化に伴う崩壊等)からそれらを改修する事業を立案し、1993(平成5)年度から10カ年計画でその事業に着手した。勝山古墳の後円部および前方部北側に広がる農業用溜池も、この事業の対象となり、1997(平成9)年度からこの事業に伴う事前調査が開始された。今年度は、後円部南側に取り付く堤の改修と墳丘北側のくびれ部から前方部にかけての法面工事が計画された。勝山古墳の墳丘そのものが改変される可能性が高いため、県文化財保存課・奈良県立橿原考古学研究所・近畿農政局大和平野農地防災事業所の三者が協議を重ね、墳丘の遺存状態を確認するための事前調査が実施されることとなった。

V.既往の調査
  第1次調査 1997(平成9)年度実施。西側の堤の内側に南北トレンチを設定して調査が行われた。調査区内からは、古墳築造以前の自然河道、古墳時代前期の土坑6基が検出されたほか、勝山古墳周濠の可能性が考えられる落ち込み(SX-01)が検出された。
  第2次調査 1998(平成10)年度実施。第1次調査のトレンチと西側の堤との間に南北トレンチ(T−1)、北側の堤の内側に東西トレンチ(T−2)、前方部北側東寄りの所に東西トレンチ(T−3)、後円部西側裾部分に3本のトレンチ(T−4〜6)を設定して調査が行われた。第1トレンチ中央部において古墳時代前期の落ち込み(SX-03)が検出されたほか、土坑、溝、ピットなどの遺構が検出された。第2トレンチ西半部では約60mの長さにわたる黒色粘土の落ち込みが検出され(SX-02)、埋土中から多量の古式土師器、木製品、自然木、石製品、礫などが出土した。第3トレンチにおいては、前方部北側の裾部が、また、第4トレンチから第6トレンチにおいては、後円部西側の裾部がそれぞれ検出された。
  第3次調査 1999(平成11)年度実施。南側の堤の内側に東西トレンチを設定して調査が行われた。自然河道の痕跡が確認されたのみで、顕著な遺構・遺物は検出されなかった。

W.調査の目的
  前述したように、今年度の溜池改修工事は、勝山古墳北側くびれ部から前方部にかけての範囲と後円部南側に取り付く堤の改修工事であり、この工事範囲内において、墳丘の遺存状態を確認することを目的とする調査を実施した。このことは、墳丘の遺存状態が良好であれば、後円部の墳丘規模および墳形復元のための資料が得られることとなる。また、墳丘裾に近い周濠埋土中から出土する遺物によって、古墳の築造時期を判断する手懸かりを得ることにもつながる。

X.調査経過
  工事対象範囲が2ケ所あるため、北側の括れ部周辺を第1調査区、後円部南側の地点を第2調査区と呼称して調査を実施した。
  第1調査区 墳丘上面に堆積している砂層等の溜池堆積土壌を機械掘削によって除去した後、現況くびれ部付近に南北方向の土層観察用ベルトを設定し、その東西の調査区を人力によって掘り下げながら調査を実施した。
  西側の調査区を地表下約60pほど掘削したところで、東西に帯状に広がる黄褐色の粘土層を面的に検出した。この粘土層には暗褐色砂礫土が顕著に混在しており、木棺を被覆する粘土槨に使用されるものとは異なる印象を受けたが、墳丘裾部に2次的な埋葬施設が存在する可能性をも考慮して、慎重に調査を進めた。まず、粘土層の性格を明らかにするため東西・南北それぞれにサブトレンチを設け、断ち割りを実施し、その土層堆積状況の観察を行なった。その結果、黄褐色粘土ブロックと暗褐色砂礫土が交互に堆積している状況が認められ、これらが墳丘を破壊した大きな穴(不明遺構9002)に関わる埋土であることが判明した。
木製品出土状況   そこで、土層観察用のベルトを十字に設定しなおし、この埋土の掘削に着手した。不明遺構9002は不整楕円形を呈し、長軸約10m、短軸6.4m以上、深さ約1.8mを測る大規模なもので、墳丘くびれ部と周濠埋土を破壊して掘削されていた。この遺構の底面が確認された段階で、くびれ部の輪郭が検出され、墳丘裾と周濠埋土がかろうじて遺存していることが判明した。遺存する周濠埋土上面には、手斧ではつったような木っ端層が認められ、それらの中には朱が塗られているものや朱が付着しているものが存在した。この層を除去するとその下から建築部材や板材、鋤柄などの木製品が多数出土した。それらの遺物の出土状態図作成・写真撮影等の記録をとった後遺物を取り上げ、周濠埋土を完掘した。その後、現況の墳丘測量を実施し、2月22日にこの調査区の調査を完了した。
  第2調査区 第2調査区は後円部南側に南北に築かれた堤体の西側裾部分を中心として、堤体に沿う形でトレンチを設定した。この部分の堤体は、他の箇所より強固に造られており、池側の法面には北と南の端にコンクリートが打ち込まれており、また、裾部の地下にもコンクリートによる布基礎が存在することが当初から判明していた。したがって、過去の築堤工事によって地形が著しい改変を受けている可能性が高かったため、重機を用いて堤体基礎の状況を確認する作業から着手した。
  その結果、地下に埋没していたコンクリート基礎およびその工事に伴う撹乱層を確認した。そのため、墳丘裾部が遺存している可能性が高い堤体内部で、かつ、堤体改良工事が及ぶ範囲まで調査区を東側に拡張し、調査を継続した。その結果、ごく一部分ではあるが地山削り出しの墳丘裾部と周濠埋土の堆積状態を確認することができた。1月31日に現況の墳丘測量を実施し、この調査区の調査を完了した。

墳丘復元図

Y.調査結果

 1.第1調査区
  東西長約19m、南北最大幅約8m、調査面積131uの調査区の中で、後円部から前方部へと屈曲する墳丘裾部を確認した。墳丘そのものは、前述した不明遺構9002によってくびれ部を中心として大きく破壊され、また、池の造成・改良等によって著しい改変を受けていた。
  不明遺構9002 不整楕円形を呈し、長軸約10m、短軸6.4m以上、深さ約1.8mを測る。埋土は黄褐色粘土ブロックと暗褐色砂礫土の互層からなる。それらは、墳丘側、池側からそれぞれ落ち込むように斜めに堆積していた。埋土中からは、弥生土器(後期)・古式土師器の破片や木製品・加工木・杭・自然木などが出土した。また、底面からは植物繊維で編んだモッコ状製品や牛馬用の小型の草鞋状製品などが出土した。この遺構が掘削された時期は、牛馬用の小型の草鞋状製品が出土しているので、中世以降と考えられる。なお、後述するU字形鋸歯紋線刻板状木製品は、この遺構の埋土下層から出土している。
  周濠埋土 くびれ部付近の周濠埋土中からは約200点にもぼる木製品が出土した。これらは、墳丘側から一括投棄されたような状態で土器片や木っ端とともに出土した。主に建築部材と考えられるものが多く、手斧による加工痕跡が明瞭に残る丸太状の柱材は23点、板材は26点を数える。柱材は30pから50p程度の長さに切られたものが多いが、最長のものは長さ152pを測り、コウヤマキ製。板材の中には線刻を有するものや朱が塗られているものなどがある。他に樹皮を円柱状に巻いた製品(12点)やザル、鋤柄などがある。これらの遺物は、周濠底面から30pから50p程度浮いた状態で出土しており、墳丘築造後一定期間を経た後に投棄されたものと考えられる。

 2.第2調査区
  南北長約21m、東西最大幅約7.5m、調査面積135uの調査区の北側部分で、後円部墳丘裾と周濠埋土を検出した。
  墳丘 墳丘裾部は地山削り出しで、高さ83pほどが遺存していた。検出した幅は僅かに1m程度であったが、堤体内に続いているので、後円部墳丘裾は調査区より東側において良好な形で遺存している可能性が高いものと考えられる。調査区北端部分において一部墳丘断ち割りを実施した。その結果、以下の所見を得た。墳丘裾の標高は65.67m、標高67.0m付近まで基盤層の堆積が認められ、この間が地山削り出しによって構築されている。そこから上が黒褐色砂礫土を主体とする盛土で、盛土内には土器片や炭化物が多量に含まれている。
  周濠埋土 周濠埋土の堆積状態は調査区の東壁で確認することができた。ただし、南半部については築堤造成土が濠底にまで達していたため、周濠の南端部を確認することはできなかった。墳丘側から南側へ斜めに堆積する周濠埋土中に、腐植植物を多量に含む黒色有機質土層(第12層)が存在し、これが鍵層になるものと考えられる。この層より上位の層においては、土師器に混ざって須恵器が含まれ、この層より下位の層からは古式土師器の破片のみが出土した。

Z.調査成果
 1.墳形と規模
  今回の調査によって南側の後円部墳丘裾部および北側のくびれ部から前方部にかけての裾部が確認された。これと、第2次調査成果に基づいて後円部の墳丘規模を求めると、直径約65mの円形となる。また、北側の前方部裾端部のラインは東北東方向に直線的にのびていることが明らかとなった。したがって、勝山古墳は以前推定されていたようないわゆる纒向型の前方後円墳ではなく、むしろ桜井茶臼山古墳に近い墳丘形態を有していた可能性が高いと考えられる。前方部前面の墳丘端部については未調査のため、全長は明らかではないが、現況の地形を勘案すれば、その規模は110mをやや上回るものと考えられる。

 2.北側くびれ部付近周濠埋土出土遺物
  北側くびれ部付近の周濠埋土中から出土した木製品には、建築部材と考えられるものが多数存在する。また、朱が塗られたものや付着したものも多数認められる。出土した鋤柄は小形のもので実用品とは考えられない。これらの木製品は、いずれも意図的に破壊された後、墳丘側から一括投棄されたものと考えられる。以上の点から、これらの遺物は、墳丘上で執行された何らかの祭祀で使用された後、一括廃棄されたものと考えられる。出土土器から、廃棄の時期は、寺沢編年の布留0式期と推定される。このような、出土状態を示す類例は、隣接する纒向石塚古墳の調査においても確認されている(註1)。石塚古墳の場合は、南北両側のくびれ部付近から、建築部材・農耕具・祭器(弧紋円盤)・朱塗りの木っ端片等が多数出土している。ただし、石塚古墳の場合は、実用品と考えられる鋤などの農耕具が多数出土している点が勝山古墳の出土状態とはやや異なっている。
 (註1) 奈良県立橿原考古学研究所 1976 『纒向』(桜井市教育委員会)
      桜井市教育委員会 1989 『纒向石塚古墳 範囲確認調査(第4次)概報』


 3.U字形鋸歯紋線刻板状木製品
  北側くびれ部付近に構築された不明遺構9002埋土下層からU字形鋸歯紋線刻板状木製品1点が出土した。前述したように、この遺構は中世以降の所産と考えられるが、この木製品は、くびれ部周濠埋土中から出土した木製品と同時期のもの考えられる。おそらく、木製品を含む堆積土の上面あたりにあったものが、不明遺構9002掘削時に掘り出され、再び投棄されたものと考えられる。
  この木製品はU字形をしており、最大幅58p、現存長64p、厚さ2.5pを測る。片面に2条の弧線と連続する鋸歯紋が描かれている。刻線内には朱の痕跡が認められる。両側の先端部が腐食しているため断言できないが、現状では他の部材と組み合わせるような仕口等の痕跡は認められない。古墳時代前期の木製品中には他に例を見ないものである。形態上の類似品には、天理市黒塚古墳竪穴式石室東北角から出土したU字形鉄製品や纒向遺跡坂田地区(纒向遺跡第42次調査)で出土したいわゆる冠形埴輪等をあげることができる(註2)。いずれもU字形の形態を呈し、鋸歯紋が表現されている点で共通する。
  この木製品は、単独で使用されたものなのか幾つかの部材と組み合わせて使用されたものなのかについては明らかではない。単独で使用されたものであるならば、類似する形態の儀器を木製品に写して大型化したものと考えられる。また、組み合わせて使用されたものであるならば、玉座の背もたれの上面を飾る装飾品のような用途が一案として考えられる。
 (註2) 奈良県教育委員会ほか 1999 『黒塚古墳調査概報』(学生社)
      (財)桜井市文化財協会 1996 『1996年 春季特別展 大和の大王の埴輪−冠形埴輪の成立と展開−展』